随筆・徒然なるままに

19 身体障害者・有安茂様を偲ぶ

平成28年9月

1998年頃撮影・左側が有安茂様76歳頃・右側が私(佐伯)43歳頃


有安茂様は、私がユーチューブに出しております、「蛍の娘(ひと)」

という曲の、歌詞を書かれた方です。


参考までに下記を、クリックして頂ければ、私の動画が出て来ます。

ソプラノ(女性)の先生と、テノール(男性)の先生が歌われた二

種類があります。


蛍の娘(ひと)…ソプラノ独唱

蛍の娘(ひと)…テノール独唱




さて、有安様の経歴について、少し紹介させて頂きます。

氏は、1923(大正12)年に生まれ、小学校5年の時に、軍隊帰りの

若い教師から受けた体罰がもとで、脊髄を強く損傷して下半身不随

となり、以来6回の手術を受けたが症状は良くならず、見出しの写

真にあるように、その後の人生が、寝たきりの生活を余儀なくされ

ました。

しかし、寝たきりの生活でありながら、その不屈の精神力で、当時、

まだ障害者に対する国の理解が少ない時代に、障害者の地位向上を

叫ばれて活躍をされました。

(以上、全国肢体障害者団体連絡協議会発行の、「有安茂と友愛会の

歩み」から要旨を抜粋)


この「蛍の娘(ひと)」の歌詞を作られたのは、1993年か、それ以

前の話だと思いますが………。

1993年に、朝日新聞を通して、有安氏が、「誰か、この歌詞に作曲

をして下さい」と呼びかけられたのを、きっかけにして、多くの方

が、作曲を試みたそうで、なかでも、岡山市の田原碩先生の作られ

たピアノ伴奏による歌曲が、もっとも気に入られたようです。

それが、どういう経緯で私の所に、この歌曲の箏伴奏による新たな

編曲依頼が来たのか、詳しい事は覚えておりませんが、とにかく、

有安茂様宅へ、ソプラノの先生と一緒に訪問して演奏を聴いて頂い

たのが、見出しにある写真です。 

この時、奥様にも、お会い致しました。

私は、これ以後、氏とは交流がなかったのですが、三年前に、この

曲を、自分のHP及びユーチューブに出すにあたり、有安様に連絡

を取ろうと思い、その後の氏の動向を調べまして、初めて、あれか

ら六年後の2004年に、82歳で、お亡くなりになられた事、また奥

様も、その後に、お亡くなりになられた事を知りました。


なお作曲をされた田原先生にも、その頃に、お目にかからせて頂き

ましたが、その当時で、すでに、ご高齢でいらっしゃいましたので、

もしかしたら、この先生も、ご存命ではないかも知れません。


それにしましても、有安様のように、寝たきりの生活を余儀なくさ

れる過酷な人生を送られた方が、身近におられるという事を感じま

して、本当に、この方の苦難を思えば、平素の自分のグチや不満な

ど、取るに足らないものだと思えて来ます。

最近は私も、自分でブログを書くようになりましてから、他人様の

ブログも、よく拝見させて頂いておりますが、中には、日常の、さ

さいな不満などを、ブログに書いて、うっぷんをはらしておられる

方も、あるようです。

そういう記事を読みますと、何だか悲しくなって来ます。

たとえば、先日、読んだ、ある方のブログでは、料亭に行った所、

隣の部屋が騒々しかったので、「超」腹立ったとか。

タクシーに乗ったら、運転手が、ラジオを、大きな音でかけていた

ので、「ムカッとした」とか。

しかし、有安様の事を思えば、料亭に行って、おいしい食事を取る

事も出来なければ、自由にタクシーに乗る事も、出来ない訳ですか

ら、食事を食べに行けたり、自由にタクシーに乗れる事だけでも、

本当は、どれだけ有難い事であるかという事に、気付いて頂けたら

な、と思いました。

左の写真は、今回の
随筆を書くにあた
り、有安様ご夫妻の
遺骨を埋葬してお
ります合祀塔に、先
月、8月14日に、
お参りさせて頂い
た時のものです。












岡山県
小田郡矢掛町宇内・
真言宗西明院横に
ある墓地に於いて



演奏会のお知らせ

11月27日、倉敷音楽協会演奏会に出演する事になりました。

会場…倉敷公民館 大ホール
時間…14時半〜16時半(予定)
私の演奏曲目…蒼い海(ピアノバージョン)、他

詳しくは、後日、倉敷音楽協会ホームページを参照して下さい。
私のHP、リンク集にあります。