イ ノ シ シ ”ぬ た 場”
                         
 
「イノシシの”ぬた場”なら,あそこの山にあるって」 
 情報網をあちこちに張っていて,クモのごとく待ち伏せしていると以外に多くの物が掛かる。 
「え? じゃあ,ぬた場には足跡もあるよねえ」 
 イノシシのぬた場−それはイノシシのいわば身だしなみの場である。人間で言えばドロ美容法? 泥地でゴロゴロ転げ回って体に泥を塗る場所,これを”ぬた場”という。泥まみれになった後は近くの木で体を擦り,ヤニをつけて磨く。しかもガリガリ牙のお手入れもするらしい。その図を想像してみるとイノシシ,これ至福の時って感じがする。「極楽極楽,いい気持ちじゃのう」と目を細めているに違いない。 
 そんなぬた場が実家近くで観察できるという。野山で育った私ではあるが,未だかつてこのイノシシの”ぬた場”にお目にかかったことがない。ちょっと重いが石膏セットを担いで出発だ。 

 平成11年3月14日, 場所は御津郡御津町。車1台分しか道幅がない道を走ると今度は徒歩。現場はヒノキの植林地。山の斜面に植えられたヒノキは見上げれば5m程だろうか? 下にはススキやらイバラやら草が生い茂っている。書いてもらった地図には確かにある道が,雑草で見通しが悪すぎて見つからない。 
「あ,あっこに穴がみえる」 
周りにある草をかき分け,小枝につかまり,ヨイショと道無き斜面を駆け上がる。 
「これがイノシシの食料調達の場ね」 
「どうやってこんなに大穴を掘るんだろう」 
「やっぱり牙でガガッと掘り上げるんじゃあない?」 
 実はこれは大間違いのトンチンカン。牙は犬歯が曲がって外に突き出たモノで,想像よりも小さいことがその後の調べでわかった。この牙,ナイフのように鋭くて雑食性イノシシの肉裂き用だ。ぽっかりと空いている穴は,ニョ〜ンと伸びた鼻に続く口先が,自由にウネウネ〜と動く技を駆使してヨイショヨイショと掘るらしい。 
 穴はあっちこっち発見できる。ちょっと掘ってやめた小さな穴から1メートルぐらいの巨大な物までボコボコ掘れている。これが農地だったらと想像する農家の方々の御立腹ぶりも納得だ。 
 穴をドンドン追っかけていっているうちに,いつの間にかすごい獣道を通って山の中腹に来ていた。 
 これらの縦横無尽にある獣道,イノシシ専用だけではないらしい。獣道沿いにイタチのような糞もあるし,タヌキの足跡だってある。正体不明の抜け毛だって沢山ある。いろんな動物もチャッカリ利用している様子がうかがえる。 

「よくみると,穴の底に食べかすが残っているよ」 
白い断面を見せている小さな固まり。指でつぶすとネバーッと糸を引く。 
「山芋? いやー,いい物食べてるねえ」 
この白い断面,キラキラ光っている。 
「食べたばかり? 新しいけど・・・。」 
 物陰から目が光っているような気がして,こわごわ後ろを振り向く。 

 どういう訳か山の上からホースがひいてあり,絶えずチョロチョロと水が滴っている場所がある。わずかに流れている水をたどっていくと・・・あった,ドロドロの”ぬた場”だ! おお,にらんだ通りいい足跡も発見! 見つかるイノシシの足跡は大小色々。家族団らんで来ているのか,ご近所さんで順番に使い回ししているのか? まずは固化に時間のかかる足跡石膏標本作りを仕掛けてからゆっくりと観察だ。 
  
    泥地は約2mX4m。ちょっと窪んでいる。これは元々か,それともイノシシのゴロゴロによるものだろうか? 付近には3本のヒノキ。真ん中の木は体を擦りつける用らしく表皮がはげてツルピカである。ガガッと牙を研いだと見られる削り跡も数本ある。 
「この木,商品価値ないね」 
「表面削る手間省けてよかったりして」 
「端っこに根っこみたいなモノがこびりついているよ」 
 相変わらず用意のいい主人は何でも持っていて,根っこのようなモノをフィルムケースに回収している。石膏道具は忘れないが,筆記用具一切を忘れて困っている私とは対照的だ。 
「うーん,これ,すごく太い毛! それに何枝にも枝毛だよ。イノシシって,元々こんな先割れの毛なのかな?」 
「こっちのぬた場にも毛が・・・,あれ? こっちのは枝毛じゃないよ」 
「なんでだろう?」 
 そんなに強く擦っちゃあキューティクルが・・・,のCMの言葉が浮かぶ。 
「ぬた場に落ちている毛,見てみて,ゴッソリ抜けてるよ。しかも1本1本でなくて束でよ」 
毛の根本はまとまっていて,そこから数本?数十本もの毛。 
「ブタ毛は3本セットっていうけれど,イノシシはスゴイねえ」 
「これ,本当にイノシシの毛? 植物だったりして・・・。」 
 仕掛けていた石膏。まだ固まっていないので周囲をうろつくことにする。 

 食べたら出る。ウンコだって落ちている。 
 楕円のポロポロした糞はザザッと見て2カ所あった。まだ柔らかく弾力もある。表面も乾いてはいない。植物の繊維がたくさん入っている。つい本能で鼻に近づける。 
「くさーい!」 
強烈だ。イヌネコのご存じ臭い糞のにおいとはちょっと違う。すごいケモノの臭いだ。少し拾って帰ろうかとも思っていたが,あまりの臭さにパッと手離してしまった。 
 新しい糞ほど獣臭はきついという。直前に立ち寄った神社で見つけたイノシシの糞はポロポロがギュギュッと固まっていて発酵しかけていた。古いモノらしく不思議と土っぽいにおいがした。 

 新しい糞に,新しい食べカス。掘り上げた土も新しい。 
「父さん,どうしよう,その辺にイノシシいたら・・・」 
「僕も同じ事さっきから考えてた」 
その場の雰囲気という物があるらしい。 
「この斜面の上の獣道からダーッってイノシシが駆け降りてきたらどうする?」 
「うーん,どうしよう・・・」 
「僕は,きっと木に登るね」 
 焦っているときには体もいうこときかないものだ。あたふた半分登ったところで追いつかれ,お尻に体当たりされてしまうと悲惨だ。 
「ははは,イノシシって,でもブタっぽよね。そんなに人を襲うかな?」 
「ほーら,一年に何回か”私襲われました”って報道されるが?」 
「・・・やっぱり私も木に登ることにするわ」 
「でも,登っても怒ってるイノシシがドシーンドシーンと木に何度も体当たりするんだ」 
 想像は果てしない。 
イノシシ,いや,獣の名誉のために言っておくが,いつもいつも襲うのではない。普段は平和解決を志す。しかし,相手に追いつめられたとき,愛する子供を守るため,そういう特別な場合のみ反逆にでてしまうのだ。 
 そんなこんなで時間が過ぎ,大きな立派な足跡が見事取れた。ホクホクで,ぬた場観察は終わったのであった。 
 今夜”ぬた場”に現れたイノシシはどうするだろう。 
 あっ! お気に入りのぬた場が荒らされている! 仰天するに違いない。この泥上の足跡,ヒョウタン型は人間よ! あのよく動きそうな丸い鼻でヒクヒク人間の臭いを嗅ぎ,こぼれた石膏の粉においを嗅ぎ,なじんだ牙とぎ場にだって人間の気配が感じられる。しっぽ巻いて逃げ出すかも知れない。是非とも覗き見したい気分だが残念だ。 
 
 帰り道,何だか腰は痛いし,足もだるい。前傾姿勢で足跡や痕跡を探しながら急な斜面を登ったのである。夢中になっているうちに体をこき使ったようだ。本人はまだまだイケルつもりだったが,体は正直モノ。後にでる筋肉痛,明日?明後日?それとも・・・? 
 明日がいいなと思ったりする。 

 母は翌日電話で教えてくれた。 
「あんた小さい頃,山でイノシシに出会ったの覚えてない?」 
あれは夢の中で起こった出来事じゃなかったの? 
「栗拾いしとったら,向こうからイノシシ母子が来てなー。。動いたらイケン!と言ってじっとしとったら,ウリ坊を守りながらイノシシは山に入っていったんよー。覚えとる?」 
 じわじわとよみがえる幼い日の記憶。固唾を呑んで見守っていた光景。 
 そうか,あれは本当に起った体験だったのだ。私は野生のイノシシに出会えていた! あれから27年ぐらい経とうか? 
 年月越えて,何だか感動がドドッと押し寄せてきた。 

 ちなみに,2日たった今も筋肉痛の方は押し寄せてくる気配はない。 

  
 
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