不 思 議 な
不 思 議 な 壁
の 物 体
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(後編)
ドンドン削る,ガリガリ削る・・・,何回も言うようだが本当に固い。
既に3分の1は削っただろうか,さなぎの部屋が次々と姿を現している。へんてこなシャーペンに変わり,今はバインダーの真ん中の金具を使っている。まともな道具っていうものは2人の間では思い付かなかったようである。
「どうする? このハチの巣」
「取ってー,取ってちょうだいー!」
小さい子を抱えるHさんは,皆と同じようにハチと聞くと恐怖心を感じているようだ。
このハチが果たして危険かどうかは解らないが,取りあえず最後までちまちま削って中を観察しつつ,取り除くことになった。
かれこれもう15分,細いベランダの上で頑張っている。段々と足の筋肉に乳酸が溜まっていく。疲労だ。だるさが襲ってくる。
「ごめんねー,土まみれね,ベランダ」
手を上に伸ばして作業しているので,ベランダのみならず私の上半身,本当は内緒にしておきたかったのだが精密機械カメラまでも,その辺中土埃まみれだ。
「アレ? いい匂いがする。何処からかな?」
蜂蜜のような匂い。ハチのさなぎからだろうか?
クンクン・・・クンクン・・・クンクン・・・
「違うわ,さなぎからじゃない,この土から匂うよ,ほら」
「ホントー,これ,何の匂いかな?」
Hさんはこの匂いを”カミツレ入り化粧品”の匂いと称した。
「なるほどねー,ところで,カミツレ入り化粧品て何?」
高級そうな響きが主婦心をくすぐる。
この土,自宅で今も保存しているが,袋を開ける度にプーンと芳香が漂ってくる。袋に鼻を突っ込んで匂っている姿を遠目で見られると結構怪しいかもしれない。この匂い,手に染み付くと石けんで洗ったぐらいじゃ落ちないから不思議なものである。
さて,この匂いに関してこんな推測を聞いた。
ハチがこの泥の巣を作るとき,だ液で固める。その唾液に,食料である花からの蜜の匂いが移ったのでは,というものだ。蜂蜜は花の蜜の種類によって,微妙に匂いが違うのはご存じだろう。まったく納得の御意見で感心してしまう。
先は見えた。もう恐がることはない。相手はさなぎ,襲ってくる相手ではない。段々大胆にゴリゴリ掘り進む。
さなぎの周りの袋ーつまりこれは繭ということだが,その下に必ず黒い粒状の物がある部屋が付いている。最初は
「ああ,幼虫時代の糞ね」ぐらいに思っていた。が,その後愛用の双眼実体顕微鏡ファーブルで見てみると,クチャクチャッとしている上に,なんとシマシマがある。糞とばかりに思っていた私はウーンと唸る。じゃあ,一体これは何だろう?
幼虫の皮ーというのは何となーく解る。問題は”どんな幼虫の皮?”というところだ。
その点を考察する前に,ハチの巣についてのお勉強。
ハチにはいろんなタイプの巣がある。プーさんでお馴染みのぶら下がり型,スズメバチのような重箱重ね型,地中にブドウ状の巣型,他の昆虫に卵を産みつけてしまうもの,さらには木の芽に卵を産みつけ「虫こぶ」になるものも等々,たががハチといえどもされどハチ,幅広く多種多様である。
今回のように巣を泥で固めたりして作るハチは,主にドロバチ類の仲間であるらしい。家の壁だけでなく,柱の穴,木の枝,すだれ,竹筒などが利用される,と例の本に書いてある。幼虫の食料となるイモムシを捕まえて麻酔をかける。用意している泥で出来た巣の中に運びいれ,それに卵を産みつけて蓋をしてしまう。孵化したハチの幼虫は新鮮な生き餌を食べつつ安全な要塞の中で飛び立つまでに備えるのだ。
今回の黒い粒状物体の正体,考えるに2通りある。
1つは,ハチの幼虫の脱皮片
2つは,エサのイモムシの残骸
果たしてどちらかなのであろう,今の段階では解らない。
この黒い粒の中になんと死んだハエが2匹入っている部屋があった。これも結構ミステリアスである。密封された部屋に何故?
密室殺ハエ事件発生だ!!
「ハチが巣を作っているうちに,知らずに紛れ込んで蓋をされた気の毒なハエ」
「親バチが麻酔をかけたイモムシには既に先客があって,ハエの幼虫が寄生していたものが羽化してしまった」
当たるも八卦当たらぬも八卦,素人ながらあれこれ考えるのは,全く楽しい。
自然観察的道楽生活の醍醐味である。
結局,13個の部屋があり,13個のさなぎが出てきた。
金曜日に13個・・・不吉な感じは拭えないが,ハチのさなぎ,記念に2つほど状態の良いものをもらっておこう。
かれこれ約40分間,私はベランダの手すりの上でヨク頑張った。あんなに細い足場の上で,爪先立ちのような格好でスゴク頑張った。もう執念である。降りたときにはガクガク,フラフラ,感覚も鈍い状態になりながらも頑張って笑顔を繕い,H家を後にした。
そのさなぎ,ふた無しジャムのびんに入れられた。
「わー,白い! これがハチのさなぎ? 生きとん?」
「もうダメだろうねえ。それより,この土を匂ってご覧,蜂蜜のようないい香りよ」
「ほんとだー!」
日を追うごとに,さなぎは段々茶色く変色してゆく。
「ああ,やっぱり死んで変色してるのね,乾燥させとこう。」
時々覗いては,納得していた。
ここで総ては終わったと思っていた。
そんなある日のことである。
時は5月27日,あれから早いもので2週間弱が経過していた。書類を取ろうとしてガタッとビンに触れてしまった。
そういえば,ものぐさの私はまだハチのさなぎを置いていたままだった。
そろそろ仕舞い時よね,乾燥したかな?と思って覗いてみる。
「へえ"〜○▲×△#%&ーーー!!!」
周囲に誰もいないのに仰天して口をついて叫んでしまうって,こういうことだ。
ピクピクピク,動いてるー! 足が,手(?)が,口がー!
当然生きてはいまいと思いこんで乾燥するのを待っていたこのハチが動いている。
言うなれば,墓場で花を手向けようとして突然手首を捕まれたような心境だ。
相手は金曜日に13個出てきたさなぎの片割れであった!
ど,どうしよう,はい,落ちついてー,
う〜フタフタ,蓋をしなきゃ!
あわてて台所の排水溝ネットで蓋を閉めると少し落ち付きを取り戻した。
そういえば最近まともに眺めていなかった。生きているなんて夢にも思っていないのだから。ここは改めてハチをじっくり見てみよう。
茶色く黒く変色して乾燥中と思っていたさなぎ,よく見ると黄色く薄いラインができていた。ちょうどお尻と肩の辺りだ。まだ半分足などは透き通って,プヨプヨとしてさえいる。羽根もまだ伸びてはいない。飛ぶにはまだまだ,という段階で,なーんだ,あわてて蓋をしなくても良かったんだとホッとする。
夜に帰ってきた主人を御案内。
「ちょっと父さん,これ見てご覧,ビックリするよ〜」
「ん?・・・・・・。」
「ねね,ビックリしたでしょう? 生きてたのよ! スゴイでしょう!」
「またまた,僕はカビでも生えて腐っていくかと思ってたのに。」
まったく乾燥させようと頑張っていた(?)私の気も知らずにいたらしい。
以下,その後の観察日記だ。
5月28日 |
胎児が手や足を動かすように,ピクピクを動かして,準備体操らしきものをしている。 |
5月29日 |
ひっきりなしにが動くようになる。もモソモソよく動く。
あれ?さなぎの下にのシミが出来ている。いった何? |
5月30日 |
をピクピクだけでなく,ツタンカーメン状態から伸ばしたり縮めたりと忙しい。プヨプヨが徐々になくなり,黒いらしく形がハッキリしてくる。もよく見えるようになる。橙黄色の模様もハッキリくっきりとしてくる。ハチから出ていると思われるが広がり,懸念する。 |
5月31日 |
あとはが伸びるだけで外見上は立派なハチに見える。が,動きが鈍っているような気がする。振動を与えないと動かない。 |
6月1日 |
動かない。これ以後,動くことはなかった。 |
残念なことに動きに気づいてから6日目,とうとう羽化することなく息絶えたようだ。繭や泥要塞を破壊し,裸ん坊の白いさなぎを誘拐したのである。衝撃や環境変化を考えれば,今まで生きていたことが不思議なくらいだ。
が,目の前には確かに羽根以外変態を終えたであろうハチが転がっている。
おおっ,これはハチの正体が解るじゃないか!
不思議な不思議な壁の泥巣の犯人が挙がる!
このHPとしては断定できるというのは画期的でオメデタイ。
各種図鑑を調べてみた。
結論:これは,ハチ目スズメバチ科のドロバチ亜科に属する「スズバチ」だ!!
巣の形態,そして黒に橙黄色模様,腹部の始まりが細くくびれていることが決め手である。巣の作り方だが,まず粘土で巣を集合的に作り,その表面に粗い砂をベタベタ塗り固めて,あんなお面状の巣になる。今回のような民家の壁のみならず,木の枝,ブロック塀にも作るそうだ。
スッキリ爽快! 正体が解るっていいものだ!
この原稿が仕上がりそうな6月23日,我が家の庭にスイーっとハチが来た。この模様,もしや・・・と走り寄る。このお尻の橙黄色の一文字,胸の縁取り,腰のくびれ,ああ,やっぱりスズバチだ。クルクルっと一回りだけしてどこかへ飛んでいった。
世界に何万種類といる昆虫の中で,このスズバチはもう間違えることはないであろう。私自身の中の「野外の毒虫と不快な虫」からは,もうスズバチという文字はなくなっている。
あの日あの時,もし巣に気づかずに通り過ぎていたら,今頃は13匹のスズバチがカミツレや美しい初夏の花の周りで飛び回っていたに違いない。
少し可哀想な事をした気もした。
ちなみに,枝などに出来た場合は…
こんな風にボール状なります。
「読者からのスゴイお話<第3集>」に
”巣から出てきたハエ”について謎解きを戴いております。
そちらも是非どうぞ!
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