2001年春、ハワイ旅行に行った我が家であるがその5ヶ月後に
沖縄に行くことになるとは予想もしていなかったのである。
この旅行はメンバーがすごい。私と妻、実母、妻の両親という五人なのだ。
まぁ、最初で最後(?)の親孝行となるかもしれない(殴・・)
親が少しでも若く元気なうちにどこか連れて行ってやりたいと計画したので
あるが年寄り三人を引き連れての二泊三日の旅、想像以上に疲れたのは
お察しいただけるであろう(^_^;)
9月終わりの3連休、中日とあって岡山空港も朝から賑やかである。
私の母は飛行機に乗るのも旅行らしい旅行もはじめてという人なのだ。
車ででかけるのさえすぐ酔うのだから岡山⇔沖縄の2時間のフライトが
大丈夫なのか心配であった。んが、『くせになりそうじゃ。』とは帰宅
してからの感想である。いやはや。。。
JTA011便は定刻どおり晴天の岡山から沖縄へと向かった。
倉敷の自宅上空から瀬戸内海を眼下に九州東部を縦断して
南へ南へ飛行する。鹿児島辺りまでは地上が見えていたが
沖縄に近づくにつれ雲が厚くなった。

とうとう那覇空港は雨、それも歓迎の土砂降り(-_-;)
沖縄はレンタカーで遊ぶ人が多いらしくレンタカー会社の出迎え
がすごい。我々はエルグランドを借り車に乗り込んだはいいが、激しく
降る雨。ワイパーぶっちぎりでも前がよく見えなくて初日に行く
予定だった玉泉洞にたどりつけず、昼食をとって早めにホテルに
しけこんだのである。
ホテルは温泉・クワプール・森英恵デザインの蝶のプールのある
ロワジールホテルオキナワ。
空港に近いこともあって飛行機の発着が良く見える。
レンタカー会社がお出迎え 早めにチェックイン
森英恵デザインの
室外プール
テラスより見る夜景

観光二日目、最初に訪れた観光地はひめゆりの塔。
私の親達は昭和初期生まれであるからやはり戦場跡などは興味
があるに違いない。ひめゆり平和祈念資料館ではひめゆり学徒
であった上品なご婦人が当時の様子を生の声で説明してくれる。
若い人でも聞き入っていた。本当に想像つかない残酷さであった。
二番目の観光地の
玉泉洞は昭和42年に発見され、東洋で最も美しい鍾乳洞と言わ
れるだけあって『すごいなぁ!』の連発。
王国村の中にハブ博物公園もあるのだが、そこはパスした。
でも、記念写真用のゴールデンパイソン(白ヘビ)には恐る恐る
触ってみた。
ひめゆりの塔 玉泉洞王国村
針千本のような鍾乳石 ちょっとひと休み

初日はどこも観光できず時間を持て余してしまったが 二日目の観光は
ひめゆりの塔⇒玉泉洞王国村⇒海中道路⇒万座毛と沖縄本島南半分
一周した。年寄り連れの旅、狭い狭いせま〜い沖縄そんなに急いで
どこへ行く?ってわけでのんびりドライブに徹したのである。
が、ホテルに戻る途中妻の父親から手渡された
蛇皮のベルトとサイフ
見てドッと疲れた。(そう、私はヘビが大嫌いなのである)
万座毛から高速を使って帰るのもあっけないので一般道を走ったのだが
嘉手納基地周辺は渋滞していた。その道路の真上をファントムが離発着
を繰り返して物々しさを感じた。やはりテロの影響かなぁ。
お天気さえ良ければ・・・
浜比嘉島より見る
浜比嘉島大橋
今回使用のレンタカーは
エルグランド
万座毛遊歩道 ゾウに見えるかな?
バスのすぐ右上わかる?
万座ビーチホテル 頭上を飛ぶ
ファントム戦闘機

旅行最終日はまずまずのお天気だ。
地下駐車場が整備されている首里城を見学。
団体さんが多く、人が集まって観光ガイドさんが説明をしているので
一緒に聞いていたが・・・あれっ?日本語じゃなかった(-_-;)
石畳を登って行くとさすがに汗が噴き出て、エアコンの効いた
各館内に入るとホッとする。少し時間も気になるので足早に
玉陵(たまうどぅん)を見て回る。世界遺産にしては
チケット売り場は掘建て小屋で、下は雨でぬかるんでいて歩き辛く
【たまうどぅん】の発音はびみょ〜に難しい。
2千円札出して確認!
三日目にしてはじめて青空が見えた 2000円札のモデルとなった
守礼門
首里城正殿 奉神門
世界遺産です・・発音が難しい!
久慶門へ 玉陵(たまうどぅん)

最終観光地は【忘れられない20世紀の爪あと】と記された旧海軍司令部壕
手榴弾で自決した跡が生々しく残っている。さすがに壕の中でシャッターを
切る気にはなれなかった。
旧海軍司令部壕 那覇市内が一望

昼過ぎまで晴れ間がのぞいていたのに空港に入って最後のお土産を
物色していると外は大雨になっていた。やってきた時も、帰る時も雨。
こんな中、定刻通りに飛行機はフライト出来るのかチョット心配だ。
が、JTA016便は思い出をいっぱい乗せ10分遅れで
岡山空港へ向け飛び立った。
pppppp
帰る頃には大雨になる 南国の雰囲気漂う那覇空港

2泊3日レンタカーで行く沖縄親孝行の旅は
台風19号の影響があったとはいえまずまずの旅であったと自負している(^.^)

当の両親は早くも次の旅行を楽しみにしているようだ(涙・・)