2002年2月24日吉備路マラソン 田村夫妻

 

「あー、疲れたっ。」

と言いながらも、まだまだ元気で顔色もよい田村絹子さん。

これからもう一度走れと言われても走り出しそう。

呼松鉄人隊では、『田村のお母さん』。

吉備路で42.159キロを走り終えて、

一風呂浴びて、

さあ、これから飲んで食べるぞ。

 

田村のお母さんが走り始めたきっかけは、肥満。

一人子供を産むのに10キロ体重増やして備える。

出てきた子どもと付随品で4キロ落ちる。

が、そこで生じる6キロの肉の差。

それを3回繰り返した。

 

これではいけないと、

2キロのランを始めたが、効果はほとんどない。

 

3人息子の長男が高校2年の時、

旦那が単身赴任となった。

これはチャンス。

本格的に脂肪燃焼作戦に突入した。

水泳教室に通い、

ランにスイム・バイクも付け加えた。

その仲間と大会にも出るようになった。

 

我ら、呼松鉄人隊には、

結成後、一番に入っていただいた。

1995年、8月27日。

さぬき広島トライアスロンで初対面。

そのさわやかな笑顔が輝いていた。

当時、47歳だとは誰も思わなかった

 

数々のランとトライアスロンの大会を経て、

2001年10月には、土佐の高知の四万十川100キロマラソンへ。

全国.大会で抽選も厳しい。

何通も出した内のひとつ、35歳○○○○が当選。

未明5時スタート。

35歳○○○○として、

14時間制限のところを13時間15分でゴール。

 

「すごいなあ。 涙でませんでしたか。」

「出なかった。えへへ。」

「でも、えらかったでしょう。」

「2.5キロの区切りを繰り返してたら、いつのまにかゴールだった。あはは。」

お母さんの最終の目標は、皆生のロングトライアスロンなのである。

100キロマラソンぐらいでは感動しないのである。

 

さて、右は、本日吉備路の出発前、田村のお父さん。

運動経験は中学1年と高校1年のバスケット部だけ。

後は、コーラス部。

今はだみ声だが、若かりし頃はバリトンの美声。

そのお父さん。

45歳の時、単身赴任。

1年が経過し、

他にやることがないのでスイミングスクールに通いだした。

そこからが、すごい。

男はやる時はやる。

水泳の鬼となった。

3年間でスイミングのコーチの免許までとった。

気がつけば、クロール・50mを29秒台で泳ぎ、

年齢別大会で優勝するまでになった。

水泳なら俺にまかせとけ。

 

岡山に帰ってきて、

なんと嫁さんが直島のトライアスロン大会に出ている。

嫁さんもがんばっているんだ。

が、なんだその泳ぎは。

750mを29分もかかるクロールなんて、この世のものではない。

「じゃあ、あなたもでてみれば。」

「よし。水泳の奥義をみせてやる。」

 

1995年、8月27日。

さぬき広島トライアスロンで初対面。

まっすぐな生き方をされてる方との印象だった。

(そのとおりだった。)

水泳はやはり速かった。

 

四万十では60キロマラソンに出場。

一足先にゴールで嫁さんを待つ。

 

我々の集まりでは、いつも2人でやってくる。

単身赴任の年月がかえって夫婦のきずなを強くさせたのかな。

 

この日は、はじめて、お父さんがお母さんに、

フルマラソンで抜かれた日でもありました。

ゴール前でかわされ、

逆に2分35秒の差をつけられた。

この日の打ち上げでは、

部屋の隅に行って煙草を吸っている後ろ姿が少し寂しげでした。

 

二人を前にして、馴れ初めを尋ねると、

最初はなかなか答えてくれなかったのですが、

どうやら、

お母さんが恋人にふられたのを、

お父さんがなぐさめたのが、きっかけだったようです。

 

いいなあ、この二人。