予期せぬ出来事 (くも膜下出血)
H・15・11・22(土)午後11時頃、ドアーを乱暴に開け閉めする音に
覗いてみると夫が青い顔でソファーに横たわっていた。
トイレで眩暈がして座り込んだらしい…
無意識にトイレのドアノブに強く掴まったらしく鍵が利かなくなっていた。
冷や汗が出ていたが暫らくすると治まったので血圧を測ってみる。
165と高い、熱は36・7℃だった。
その夜は頭痛がするけど我慢できないほどでもない…ということでそのまま就寝。
翌日は日曜日、依然頭痛はあるがコタツで寝たり起きたりしていた。
月曜(11・24)は勤労感謝の日の振替休日のため休診だったが、
掛かり付けの総合病院へ電話で状態を説明し診察をお願いした。
夫はこの病院へ6年前から糖尿病と血圧の治療に月に一度通院していた。
その日は夫の担当医師が休日勤務していた。
熱や吐き気、手足に痺れの症状もない…ことから
「血糖値が下がって眩暈を起こしたのでしょう」との診断で内服薬を貰って帰宅…
その薬で頭痛もおさまり、すっかり元気を取り戻したかに見えた。
翌朝はウォーキングをし、それからトイレドアノブの取り替え修理をして
その日はまずまず元気に過ごした。
翌26日…前日の元気は影をひそめ調子が悪く頭痛がひどそうだった。
11月の診察予約日は明日27日だったので、「病院へは明日行く…」
として寝ていたが不安になり 「頭が割れそうに痛いと言っている…」
と少々オーバーに電話で訴えて病院へ連れて行った、着くとすぐにCT検査室へ…
CT室には自分で歩いて行ったのに、出て来る時は車椅子に乗っている。
歩けるというのに無理やり乗せられたのだそうな…
ほどなく内科医師に呼ばれ脳のCT写真を見ながら説明を聞いたのだが
「えっ?嘘でしょう?」半信半疑で実感出来なかった。
その日(水曜)は大学病院から専門医師が来院しての、
この病院では週に一度の脳神経外科の診察日だった。
すぐにそちらの診察室へと移動、詳しく話を聞いた。
直径20mmの大きな脳動脈瘤が出来ていて一部が破裂し出血、
幸いなことは破裂部位周辺の血腫により出血が止まった状態の
脳動脈瘤破裂による「くも膜下出血」と診断された。
再破裂の危険性が大なので緊急手術が必要…ということで、
脳神経手術設備の整った市外の病院へ即刻に手配、
搬送されることになった。
点滴を受けながら救急車で運ばれる夫を
私は必死の面持ちでハンドルを握りしめ後を追った。
その病院では待機していて直ちに脳血管検査等して翌日手術ということになった。
担当医師から病名や状態、手術方法、必要品などを説明する声が頭の上を通り過ぎ、
同意書の内容や署名はメガネを忘れたせいもあり、全てがボーっと霞んでいた。
次女の勤務先への連絡も支離滅裂な有様…翌朝長女も大阪から駆けつけた。
そして11月27日午後2時手術室へと運ばれた。
それから待ち続けた時間は永遠とも思えるほどの長い長いものだった。
その間にあの説明内容が鮮明に思い出され、
今このときにも動脈瘤が再破裂しているのではないか…
などなど最悪の事態ばかりが頭の中を駆け巡ったが、
娘たちが傍にいてくれることの心強さ、家族の絆を感じた。
10時間後には「クリッピング」が成功したとの経過を看護師から告げられ、
それからまた2時間ほどの時が過ぎ全てが終了した。
午後2時から午前2時まで…12時間を要した長い長い手術。
直後に執刀の医師から説明を受け、唯ただ深々と頭を下げたのだった。
顕微鏡を見ながらの緻密な脳手術、長時間の緊張…
本当に本当にお疲れ様でした。
ICU(集中治療室)では機器に囲まれ全身を管でつながれて、
頭全体をガーゼや白布で覆われ瞼が腫れあがった痛々しい姿の
まるで別人のような夫がそこに横たわっていた。
出血量が少なくまた部位が幸いしたこと、適切早急な処置、
そして優秀な医師に恵まれて
無事こうして生かされているのだと全ての人たちに感謝した。
翌日、呼びかけたが瞼が腫れているため目は開けないが少し反応があり、
手を握れば握り返し、足も指も動いている。
時間経過と共に少しずつ反応が顕著になり私を認めて「水がほしい…」
尿管が入っているのに「トイレに行くから起こして…」
それから目やには出ていないけど開かないので「目やにを拭いて…」
などなど口の中でモゴモゴと不鮮明ながら訴えた。
水分は禁止されていたので辛抱して…と言うと不満そうな顔をした。
それからも目を閉じている時間が長いので看護師が、
「奥さんが傍にいるから目を開けて顔を見てあげて…」と言うと
「見た〜ない」…「言うことを聞いてくれないから」…とモゴモゴ乍らも憎まれ口…
麻痺もなく意思の疎通もできる…今のところ障害は出ていない…
医師からも説明は受けていたが、自分自身の目や耳でしっかりと確認出来た。
安心した途端に今まですっかり忘れていた食欲がこの時突然蘇り
お腹がグ〜っと大きく鳴った。
病院から帰る途中に連れて行ってくれた「回るお寿司」では
すごい勢いでお皿が重なった。
(あれ以来体重が一気に3kも減ったのに、これではすぐにリバウンドね)
そして10日間前後はICUで経過観察…の予定だったが
5日目には5階外科病棟の回復室へと移動した。
患者さんが次々に増えてベッドが不足、良好状態の夫が移動したらしい。
四六時中医師や看護師が行き交い、電話のベルや言葉が飛び交うICUと違い、
ナースステーション隣のこの部屋は静かで落ち着けたが、
術後5日目の夫は頭痛が激しく苦しそうで鎮痛剤は欠かせなかった。
それも徐々に注射から錠剤へと変化していった。
この回復室でも隣の部屋へと移動したりしながら4日間を過ごした。
その間に点滴も間遠になり食事もしっかりと食べ、
トイレにも点滴を引きずりながら自分で行けるようになった。
そして今度は4人部屋へと移動(栄転だと喜んだっけ…)
ここへ移ってからは目に見えて回復し、それは医師も驚くほどだった。
そして術後2週間目の脳血管検査も無事に通過…
良好とのお墨付きを頂いたことで本当に心の底から安心できた。
「11年間手術をしてきた中で20oもの大きい動脈瘤は2〜3例目です」
との医師の声が耳に残っているけれど…
今にして思えばあのフゥ〜と眩暈がして座り込んだ時に破裂して出血、
幸いにも少量だったのと、それが止まったままの状態だったので、
22日から26日まで大事に至らず持ちこたえたのだろう。
ウォーキングやドアノブの交換修理までしたが、
知らないこととはいえ時限爆弾を抱えた状態で過ごした4日間だったのだ。
夫のように症状が軽症で診察を受けた場合、見た目は元気なので
重大な病気とは診断されず見逃されることが多いという。
また30〜40%の人が初回破裂の時に受診してない…という統計もあるそうだ。
まさしく夫もすぐには受診しなかった。
けれども軽症の状態で手術を受ければ80%以上の人が
元気に社会復帰しているという記述もあった。
でももしこの4日間の内に再破裂を起こした場合、
死に至るか重い後遺症が出ただろう。
再破裂は短期間に必ず起きるということだから…
くも膜下出血で悲惨な結末となった人の話は何度か耳にしたが、
自分からは遠い出来事として聞いていた。
まさか自分の夫が同じ病気になろうとは夢々思っていなかった。
突然の激しい頭痛や吐き気、そして意識障害を起こした場合、
誰しもためらうことなく救急車を呼ぶでしょう。
しかし突然の頭痛でもしばらくして我慢できる程度におさまったとしたら
つい自己判断で受診を先延ばしにしてしまいがちです。
でもこの頭痛が持続するようならば早急に脳神経外科を受診する…
これが体験から得た教訓となりました。
3週間あまりの入院で後遺症もなく退院出来たことを
心配していた周りの人たちは一様に驚き、そして喜んでくれた。
励ましの電話やメールにも力づけられた。
本当にありがとう〜!感謝感謝です。
お見舞いに添えられて
いた絵手紙
裏面には心温まる言葉が
いっぱい詰まっていた。
退院当初は気力も体力も弱っていたがそれも徐々に回復し、
今は歩調はゆっくりながら40分ほどのウォーキングをしている。
暖かくなる頃には趣味のターゲットゴルフなども楽しめるようになるだろう。
それにつけても思い出すのは同室だった人のこと。
偶然にも同じ市内の方で、交通事故(自損)により胸部から大出血、
そして脳の4分の1が真っ黒の状態になり、麻痺があり意思の疎通もままならない…
夫より1ヶ月前に入院し、外科治療は一応終わり、
少しずつリハビリの効果が現れ始めたという程度だった。
(事故現場というのもわが家からほんの近くなのだ)
その方の奥さんと色々とお話をしたが、退院後も車椅子生活は免れないという。
他人事とは思えずお気の毒で夫の回復ぶりを後ろめたく感じたりもした。
彼らはご夫婦揃ってのアマチュア画家で市内では知る人ぞ知る有名人。
「おとうさん ここへ絵を描いてみて…」などと
しきりに呼びかけ話し掛けていた奥さんの声が今も耳に残っている。
リハビリ専門の病院へ転院する予定…と言っていたが、
よりよい効果が出ることを心から祈ってやまない。予期せぬ出来事はいつ身に降りかかるか分からない。
特に交通事故や病気は年令と共に確率も高くなる。
危険はいつも背中合わせ…
このことに心しながら日々を大切にと思うこの頃です。完