堀南の歴史について

                                              平成19年1月(初版)
                         堀南の歴史

                                              倉敷市堀南 小谷 弥


1.陸地化以前の概要

  遠い昔、この地域一帯は海でした。

  その海岸線は、現在の総社市湛井(たたい)付近と云われています。したがってこの地域も
 北方の青江山や菅生山のふもとまでが海でした。

  この様に一帯が海であった時代に足高神社は、古くから足高山に祭られており、延長五年
 (西暦927年)に制定された「延喜式」の「神名張」の中に「備中国十八座窪屋郡三座足高神社」
  と記載されています。

  なお、足高山の名称は、「笹島」とも「小竹島」とも呼ばれ、足高神社も「葦高神社」と
  書かれていた時期がありました。また、別名で「帆下宮(ほさげのみや)」とも呼ばれていました。

  陸地化は、松山川(高梁川の旧名称)の水が運んで来る土砂によって自然に堆積し、
  沖積平野が現われ、長い年月を経て順次南下していったものです。

  残っている記録等によりますと霊亀元年(西暦715年)〜天平十一年(西暦735年)
  には現在の大内、日吉、八王子あたりまでが陸地となっており、又それ以降も陸地化は
  南下しており、西暦1200年代後半から1300年代前半あたりに、概ね現在のJR山陽
  本線より北方については、陸地化が完了していたと思われます。

  その後の陸地化に関する記録等が残っていないため、南下の時代を特定することは出来ません
  が、寺史等によって推定をして見ます。

  沖にある円福寺は、天文十一年(西暦1542年)に、足高山から移転し、四十瀬にある
  善福寺は慶長年間(西暦1596年〜1615年)に現在地に創建されたと伝えられています。
  このことから、お寺が建つと云うことは、その周辺にある程度の集落ができていたことが
  うかがえ、それまでには、陸地化がされてから、かなりの年月が必要であったと思われます。
  そのことから田ノ上、沖、四十瀬の一部は、大内や日吉が陸地化された、その南端であった
  可能性もあります。

  堀南は、まだこの時代には存在しておりませんでした。


2.干拓事業

  天正十年(西暦1582年)に備中高松城の水攻が行われていますが、この時の堤防の技術を
  応用して東松山川の八王子から浦田の黒山(大高街道を南へ五軒屋の坂を登った地点)までの
  間に堤防を築造し干拓事業が行われています。

  堤防の築造時期を特定する史料が見つかっていませんが、高松城水攻後の西暦1583年〜
  1617年の間に着工され、干拓事業が完了した西暦1631年までには完成していたものと思われます。

  干拓事業は、第一期と第二期に分かれており、第一期は、元和三年〜五年(西暦1617年〜
  1619年)に、大高小学校の北側と足高山、大田山(新田との境付近で結婚式場がある近く)
  を結んだ線より北側が開発され沖村、篠沖新田村、西中新田村、東中新田村、伯楽市新田村、
  渋江村、田之上村が誕生しています。

  つづいて第二期は、寛永六年〜八年(西暦1629年〜1631年)の間に沖新田村(後の堀南です。)、
  古新田又は前新田、福井新田村、吉岡新田又は吉岡新田村、篠沖新田村、浦田新田村、
  四十瀬埋川新田村が誕生しています。                      

  当時の堀南の地名−備中国窪屋郡沖新田村。


3.干拓事業以降のうつりかわり

  3−1  寛永十五、十六年(西暦1638年、1639年)
        沖村及び沖新田村は松山藩(池田)の領地となっています。石高:一六八.一石。

        *一石:十斗、玄米で約百五十キログラム

  3−2  正保二、三年(西暦1645年、1646年)
        沖村及び沖村新田(名称が変っている)は、幕府領となっています。

  3−3  延宝年間(西暦1673年〜1681年)
        この間に吉岡川が東松山川と切り離されています。

  3−4  元禄十四年(西暦1701年)
        沖村は沖村新田を含めて沖村となっており、西江原藩領(森)に変っています。
        現在の井原市。
        備中国窪屋郡沖村字堀川、四軒屋、鬼山。

  3−5  正徳四年(西暦1714年)
        沖村は駿河田中藩(内藤)領になっています。
        現在の静岡県 石高:五五一.八三五石。

  3−6  安永四年(西暦1775年)
        沖村は幕府領に変わっています。           
        沖村は、石高:五五四.八七一石、家数九九軒、人数四九九人(男二五七人、
        女二四二人)、牛二五足、寺一ヶ所:円福寺、木綿作りありと記録されています。

  3−7  明治元年(西暦1869年)五月十六日
        沖村は倉敷県の管轄となる。

  3−8  明治四年(西暦1871年)十一月十四日
        沖村は岡山県の管轄となる。

  3−9  明治四年(西暦1871年)十一月十五日
        沖村は深津県の管轄となる。

  3−10 明治五年(西暦1872年)六月七日
        沖村は小田県の管轄となる。

  3−11 明治八年(西暦1875年)十二月十日
        沖村は岡山県の管轄となる。

  3−12 明治十年(西暦1877年)十一月八日
        県下に二十三の区務所を設け、沖村は第八区務所の窪屋郡役所(倉敷村)の
        所管となり、その下に戸長役場が設けられた。
        沖村は四十瀬村等十ヶ村とともに第五戸長役場(所在四十瀬)となった。

  3−13 明治十一年(西暦1878年)九月二十日
        従来の区割を廃し、郡区町村制を施行し、各村に戸長役場を置いた。

  3−14 明治十六年(西暦1883年)二月十五日
        戸長役場を整理統合し、沖村は安江村等五ヶ村で、窪屋郡第二部戸長役場
        (所在沖村)の所轄となった。

  3−15 明治二十二年(西暦1889年)六月一日
        町村制の施行により合併。
        沖村は安江村、四十瀬村、富井村、福井村の五村が合併し大市村となる。
        西中新田村等五村は葦高村となった。
        備中国窪屋郡大市村大字沖字堀川、四軒屋、鬼山。

  3−16 明治二十三年(西暦1890年)五月
        府県制、郡制公布。
        岡山県窪屋郡大市村大字沖字堀川、四軒屋、鬼山。

  3−17 明治二十七年(西暦1894年)四月
        都宇、窪屋両郡役所を併合し、都宇窪屋郡役所とし、倉敷町に置いた。

  3−18 明治三十三年(西暦1900年)四月一日
        郡制施行により都宇郡、窪屋郡が合併し都窪郡となり郡役所を倉敷町に置いた。
        岡山県都窪郡大市村大字沖字堀川、四軒屋、鬼山。

  3−19 明治三十四年(西暦1901年)四月一日
        大市村と葦高村とが合併し大高村となった。
        岡山県都窪郡大高村大字沖字堀川、四軒屋、鬼山。

  3−20 明治四十三年(西暦1906年)
        高梁川の大改修事業が着工された。

  3−21 大正十三年(西暦1914年)
        前記事業が完成した。
        この工事によって長年の洪水による災害から地域を救うことができました。
        また、河川の跡地については小中学校や野球場等の公共施設や工場用地等に
        活用されています。

  3−22 昭和二年(西暦1927年)四月一日
        倉敷町、大高村、万寿村が合併し倉敷町となる。
        岡山県都窪郡倉敷町大字沖。

  3−23 昭和三年(西暦1928年)四月一日
        市制施行により倉敷市となる。
        岡山県倉敷市大字沖。

  3−24 昭和十年(西暦1935年)十月十日
        旧大字地番順改正により新町名となった。
        この時に堀南と云う地名になりました。
        その区域は寛永六年の第二期干拓工事により誕生した沖新田村の区域です。
        岡山県倉敷市堀南。

                                                   以上