随筆・徒然なるままに

8 信仰と不思議な出来事

平成26年6月

←ローソクの雫から

  現れ出た観音様

  実物は、タテが

  約2センチです。


早いもので、母の一周忌(5月30 日)が過ぎました。

本日は、母の死後に起きた不思議な出来事を紹介させて頂きます。

上記の写真は、母の葬儀後、初めて葬儀会場から自宅へ位牌を持ち

帰り、お祀りをさせて頂きました、その最初のローソクの雫から突

然に現れ出たものですが、それが、まるで観音様のように見えませ

んか?

それにつけて思う事は、母は生前、大変に信仰深い人で、毎日、ご

神仏様への勤行を、かかした事がありませんでした。

しかも、我欲的な願い事などは一切なく、ひたすら感謝の祈りのみ

を、捧げておりました。

そのような信仰の姿を、ご神仏様が愛でて証を見せて下さったのか

も知れないと、私は解釈をしております。

信仰と申しますと、皆様方の中には、何か別世界の事のように考え

ておられる方もあるでしょうが、ここで、少し私の持論を述べさせ

て頂きます。

一般に子供は、親からの愛情を受けて育ちますが、その子供が、親

に対して、しっかりと感謝の気持ちを表明すれば、親は、益々うれ

しくなって更に深い愛情を注いでくれるものです。

逆に、親に感謝の意を表さない人や反抗する人は、親の方も、充分

に愛情を注げないものです。

それと同じように、目に見えない世界(霊界)があって、そこには

親の、そのまた親である、ご先祖様がおられると信じて、この方に

感謝をして仰ぎ奉る、すなわち信じて仰ぐから、信仰だと思うので

す。

そして神様とは、ご先祖様の、そのまた、ご先祖様になられる方で

あると、私は解釈しております。

私は、幼少より信仰の道を師事しておりました、岡田千恵子先生と

いう方がおられましたが、その方が、平成14年に91歳で没してか

らは、独学で世界のあらゆる宗教宗派を研究してみたいと思い立ち、

その成果は、非公開ではありますが、論文にまとめております。

その中で、私にとっては他宗にあたる日蓮宗の経典である法華経も、

一通り読んで見ましたが、たとえば、第十四巻「安楽行品(あんらん

ぎょうほん)」の冒頭には、「常に怒る事なくおごる事なく、我をはら

ず、正しい理に従い、決して乱暴な気持ちを起すことなく、また自

分が他人と違った立派な行いをしているなどと思いあがる事なく、

物事を正しく観察して、かたよった見方をせず、相手の差別なく慈

悲の行いをしながら、それをわざとらしく外に示さない。」などとい

う、素晴らしい教えが説かれてあり、私は大変に感銘を覚えました。

ですから、日蓮宗の信者様、檀家様であれば、当然、このような教

えを、深く学んでおられると思うのですが、中には、先祖供養は、

お坊様が主役で行う仕事だと思い込み、本当の主役である子孫の自

分は、まったく、お釈迦様の教えに無頓着な方も、おられるようで

ございます。

はなはだしい人は、お坊様が唱えるお経が、上手だとか下手だとか

値踏みをして、それで、お布施の額を決めたりする人も、おられる

ようですが、そもそも「布施」とは、お釈迦様が定めた、六波羅蜜

という、六つの修行方法の一つであり、さらに、その「布施」には、

「財施」「法施」「無畏施」などに分かれます。

要するに、人々に物や金銭を施したり、労働力を提供したり、逆境

に苦しんでいる人を励ましたりなど、更に細かく言えば、いろいろ

とありますが、その「金銭の施し」だけが、一人歩きをして、「お

布施」=「お坊様の読経料」であるというのが、世間の常識のよう

になっているのも、大変おかしな話だと、私は常々感じております。
本日は、信仰に対する一端を述べさせて頂きましたが、また、項を
改めまして、おいおいと書き綴って見たいと思っております。
今回は、一応、ここまでにさせて頂きます。



お知らせ


故佐伯昌江の一周忌にあたり、生前中に残されている母の

ビデオの中より、この度は、平成9年(満70歳の時)に撮影を

致しました「八重衣」を公開させて頂きます。

こちらからどうぞ