堕天 最終話
翌日の夜、カナエから電話が入った。
「ねぇ…今日、そっち行っていい?」
独りでいると思い出すのかも知れない。
夜はアルバイトがあったが、僕の部屋の鍵を集合ポストに隠しておくから入って待っていてくれと答えて電話を切った。
アルバイトを終えて、深夜に帰宅すると、カナエは温かいシチューを作って待っていてくれた。
何事もなかったように二人のいつもの時間は過ぎていく。
僕はワインを飲みながら、他愛もないそんな時間をとても愛しく感じていた。
カナエの携帯が光った。
蝋燭を吹き消したように、二人の会話がふっと止む。
「…………彼氏からだ…。電話、出ていい?…でも、どうしよ…話せないかも………。」
怯えたような表情でカナエは僕に助けを求めていた。
「大丈夫。余計な話しは絶対に何もするな。いつもの通りおやすみの挨拶だけをしたらいい。大丈夫っ。」
僕はカナエの手を握る。
彼女は僕の手を握り返しながら、携帯を開いた。
「…もしもし…うん。…………元気だよ…うん、うん…そっちは………そっか……………。」
カナエは返事をするたびに僕の手を握り返していた。大好きな彼氏に嘘を吐く痛みが指先から伝わる。
僕はそっぽを向いてワインを口に含んでいたが、どんな味なのかもわからなかった。
ただ、渋味が口の中一杯に広がり続けるだけ。
「………うん。休みに入ったら帰るから。電話、ありがとう…おやすみ。」
カナエは電話を閉じる。
目には涙を浮かべていた。
「今日も泊まっていい?」
彼女は呟くように僕に訊ねた。
「いいよ。大丈夫。泊まっていけよ。」
僕たちは食卓を片付けると、寝るための準備をし、カナエはベッドに、僕はブランケットにくるまって床に寝転がった。
電気を消して天井を眺めていると、カナエが声を掛けてきた。
「ねぇ……眠れない。…こっち、来ない?」
僕は少し考えてから、黙ってベッドに潜り込んだ。
カナエは僕の腕を取って自分の頭の下に持っていき、僕の胸の前で丸くなる。
小柄な彼女は僕に包まれるように、更に身体を縮めていた。
カナエの髪の香りと、胸に当たる吐息が僕をドキドキとさせる。
「………怖いの…。嫌な感触が全身に残っていて…私、汚くなっちゃった?」
彼女の声が震えていた。
僕は溜め息をつく。
それは決断をする時の僕の癖。
空いた腕をそっと彼女の背中に回し、僕の方に抱き寄せる。
縮めていた身体を延ばして、カナエの身体が密着してきた。
涙で濡れた彼女の顔を見つめ、キスをする。
彼女が汚れていないことを証明するために。
彼女が美しいことを伝えるために。
何も損なわれなかったことを教えるために。
僕たちはとても自然にキスをした。
そっと…、そっと…。
丁寧な、愛情の籠ったキスを。
僕の掌が柔らかく彼女を撫でていく。
嫌な記憶を打ち消す力となるように祈りながら。
つまらない劣情の跡を拭いさるように。
僕はカナエが愛しかった。
それは独占欲や所有欲とはかけ離れた、純粋に相手を慈しむ想いだった。
求められるままに与え、与えて満たされる幸福。
僕たちは自然に繋がり、自然に癒されていた。
世が明けて、カーテンの隙間から太陽の光が射し込む。
裸のままで僕たちはまどろんでいた。
僕は僕の彼女のことが頭に浮かんだけれど、結局のところ、こうするしか他に僕たちには選択肢がなかったんだと諦めた。
僕の背にまっ白い羽が生えていたなら、きっと少し黒ずんだのかも知れない。
でも、僕は満足していたし、羽の白さに拘る必要なんかないように思えた。
あどけないカナエの寝顔は、朝の光の中で、穏やかに輝いていた。