高級的快楽的驚愕的北京観光 (2012.8.4-8.7)

■8月4日(土)

【入国】

9:10発中国東方航空MU528で岡山空港を出発。事前に、中国東方航空で中国を出発する場合、機内へライターの持ち込みは不可・没収だが、岡山空港からの出発便ではライターの機内持ち込みは可能と予想していたが、出国検査であえなく、ライターは没収される。どうも、飛行場次第で対応が異なる模様。1時間40分で上海空港着。そこで、国内線に乗り換えるのだが、今回のツアーでは、団体は私たち家族の3人のみ。自分で上海空港での乗換案内を凝視。スーツケースは北京に直行しないので、スーツケースを持ち運びながら上海空港内を2F→1F→3Fへt移動。出国審査をこなして、なんとか12:15発の北京行き中国東方航空MU564に乗った。国内線発着ターミナルでは喫煙所に直行。ライターがなくても備え付けのライターが喫煙所にあるので大丈夫と聞いていた。確かに、喫煙所の壁には、ライターが備え付きで使用可能だった。ここで一服。機内食を頂きながら北京へ。予定は15:05だったが、実際には14:00に到着。ここで時計を1時間前に変更。時差が少ないのは有難い。到着ロビーでは、HISのプラカードを持った趙さん(26歳女性ガイド)を発見。車でとにかく5つ星のRegent Hotel Beijing(北京麗晶酒店)にチェックイン。ちなみに「飯店」は古いホテル。新しいホテルは「酒店」と表示するとのこと。

 

【胡同】

時間に余裕があったので3日目に予定していた胡同(フートン)を訪問。中国語でいう衚衕(こどう、またはフートン(ピンイン: hútòng))とは、主に首都北京市の旧城内を中心に点在する細い路地のこと。元統治時代の名残である。 なお、北京語の伝統的な略字、および中国語の簡体字では「胡同」と書き、これに倣って日本語でも「胡同」と書いて済ませることも多い。伝統的家屋建築である四合院が多くこの胡同に面し、古き良き北京の面影をしのばせる。写真は胡同ツアーの三輪車(20元=244円)。今回のツアーでは陳さんのお宅を訪問させてもらう(写真)。中庭に面した4つの部屋があった。本来は四合院だから4件で九通の中庭を利用していたのかもしれない。北京市内の胡同はかなり残っていて下町の雰囲気が色濃く残っていた。上半身裸の男たちが仕事もなく、日中から煙草を吸いながら(市内で自由に煙草が吸えるのは胡同のみかもしれない)ぶらぶらしたり、トランプゲームをしたり、おしゃべりをしたり、お茶を飲んだりしていた。アメリカのハーレムの黒人たちのようであった(1970年代のハーレムです)。愛想も良く、中国語では話ができなかったが、身振り手振りでなんとか通じた。

【四川料理】

夕食は四川料理。ここでも煙草はレストランの外のみ。ロシアン人の子供達の団体旅行のために、今回は個室で食事をした。強烈な香辛料の入った麻婆豆腐は上手いのか、辛いのか分からないほどで、子供と妻は一口食べたのみで二度と口にしなかった。中国で最初のビールは青島ビール。上手い!アルコール分が3.5%で飲み易く、味もまずまずでした。チンジャオロースは最も口に会った料理でした。炒飯は味が薄くて、米も薄っぺらで不味かったように思う。今回の中華料理で炒飯は一様に不味かったように記憶しています。

【ミュージカル】69_0.jpg

夕食後、紅劇場でのカンフーを題材にしたお芝居を鑑賞。一人380元(4636円)。少林寺に預けられた子供が苦労して技を磨き、大きくなって少林寺の老師となるという単純なお話だったが、繰り返されるカンフーもどきのアクロバットにはため息がでるほどの凄さがあった。雑技団の技に通じるものもあり、感激した。中国功夫の一代表とも言える少林寺功夫や少林寺和尚の昔生活などをミュージカル・ショーで演出。物語にカンフーの技を見事に取り入れたこの劇は、主人公の少年僧・純一が母と別れて山寺に修行に入り、度重なる試練を乗り越え、ついに一代宗匠になるというストーリー。武術にクラシックバレエ、モダンダンス、雑技を融合させたユニークな構成で、独創的なダンス、照明、オリジナル音楽も、素晴らしい舞台創りに一役買っています。『ザ・レジェンド・オブ・カンフー』として世界各地で公演され、高い評価を得ているという。見事な演出だった。

 

■8月5日(日)

【頤和園】

朝8:30に趙さんと合流。最初に頤和園(いわえん)訪問。頤和園は北京西北に位置する庭園公園で、1998年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録される。すばらしい景色とみごとな宮殿で知られる古典的庭園です。西太后が夏の避暑地として利用したと説明を受けた。西太后を知っているかと趙さんが訪ねるので、日本では悪女、影の権力者のイメージが強い女性だ、と答えると、中国では日本の軍部に対抗した抗日の女傑のイメージの方が強いと趙さんは言う。頣和園は面積は293ヘクタール、峰や湖水のあいだに3000余室をかぞえる宮殿が配置された庭園である。古典的庭園としての和園は、中国の造園芸術の伝統をついだもので、しかも一つの到達点をしめすものといってよいと言われている。天気が今一つだったので、広い湖の開放的な気分は素晴らしかったが、今一つ楽しめなかった。

 

【明の十三陵】

続いて、明の十三陵を訪れた。明の十三陵とは、北京市昌平区天寿山にある明代の皇帝、后妃の陵墓群である。成祖永楽帝以後の皇帝13代の皇帝の陵墓があるため、この通称がある。このうち定陵は発掘され内部は地下宮殿として公開されているというので、4人で向かった。この頃から、私が中国の歴史に詳しいことに彼女も気がついたようで、歴史上の人物について色々な話をした。万歴帝、乾隆帝、康煕帝などの歴史上の人物の名前を目にすると話題がはずむ。彼女はなかなかの歴女だ。地下宮殿は涼しい。まるで冷房が効いているような感じ。もちろん実際の発掘遺品は博物館にあるのだが、皇帝の陵の中に入るのはちょっとワクワクした。

【万里の長城】

午後からはいよいよお待ちかねの万里の長城だ。高速道路を北に向かって八達嶺長城(はったつれい)に向かう。高速道路の途中の看板を見てビックリしました。「左 ラサ」と書いてあるではありませんか。趙さんに「チベットのラサですか」と尋ねると、「そうです」と答える。感激しました。このまま車に乗ってすすめばチベットまで行けるのか・・・。私たちが見た万里の長城は八達嶺というところの長城です。

八達嶺長城は北京の北西部に位置する長城。世界遺産・万里の長城の訪問可能な地点のうち、もっとも有名かつ一般的な観光地。万里の長城のうちもっとも早く観光地として一般公開された場所である。現在の遺構は明代に建設されたものである。北京郊外に位置し北京市内と直通する八達嶺高速道路が建設されるなどの高い利便性から、年間を通じて多くの観光客が訪問する。ただし冬季は北京市内より気温が下がり、春は黄砂現象が多く観測され、また7月頃には霧が発生することから温暖で晴天の多い秋季が最も混雑する。

今回の旅行中疑問に思ったことがある。我々のワンボックスカーの運転手だ。中国語しかしゃべらないので、我々と話すことはない。長城でも駐車場で我々の帰還をただ待っているだけ。退屈しないのだろうか?

以下はウィキペディアから「万里の長城」についての一節。

秦の始皇帝の構築した長城が認識されているが、現存している「万里の長城」の大部分は明代に作られたものである。戦国時代には外敵に備えるために戦国七雄のすべての国が長城を建設していた。それは北に備えるためのものだけではなく、斉や韓、魏や楚のように北方遊牧民族と接していない国も、特に警戒すべき国境に長城を作っていた。そのなかで、北の異民族に備えるために北の国境に長城を建設していたのは燕、趙、秦の3ヶ国であった。始皇帝は中華を統一した後に中国の中にある長城は取り壊し、北に作られた3ヶ国の長城を繋げて大長城としたのである。この時の長城は版築により粘土質の土を固めて築いた建造物であり、馬や人が乗り越えられなければ良いということで、場所にもよるが多くの区間はそれほど高くない城壁(幅3〜5m、高さ約2m)だったという。また現在の物よりかなり北に位置し、その東端は朝鮮半島に及んだ。この長城は前漢にも引き継がれ、武帝の時代にさらに延長される。匈奴を追って領土を拡張したことから、長城は新しく得た河西回廊を守る形で西に延長され、玉門関まで拡張された。しかし、後漢の半ばごろには放棄され、三国時代には長城防衛は行われていなかった。その後の五胡十六国時代に異民族の力が強くなり、華北を統一した鮮卑族の北魏はさらに北からの遊牧民族の来襲を警戒して、漢代長城より南寄りの現在の線に新しく長城を築いた。これは東西分裂後の北斉にも引き継がれ、さらに北斉を倒した隋もこの長城を維持した。しかし、唐王朝は長城防衛そのものを放棄し、その後の五代十国や宋王朝もこの方針を引き継いだため、長城はしばらく中国史から姿を消す。

長城が復活したのは、女真の建国した金の時代であった。金はさらに北方からの襲撃を恐れ、大興安嶺の線に沿って界壕と呼ばれる長大な空堀を掘った。界壕の内側には掘った土を盛り上げて城を築き、ここで実質的に長城防衛が復活した。しかし、界壕はモンゴル人の建国したモンゴル帝国によって難なく突破され、長城を越えて侵入したモンゴルによって金は滅亡した。モンゴル人の元は長城を築かず、南方から興った中国人の王朝である明が元王朝を北方の草原へ駆逐しても、首都を南の南京に置いた朱元璋は長城を復活しなかった。長城防衛を復活させたのは明の第3代皇帝である永楽帝である。首都を遊牧民族の拠点に近い北京へと移した永楽帝は、元の再来に備えて長城を強化する必要に迫られ、北方国境全域において長城を建設し、ここに長城はようやく現在の形になった。よく「農耕民族と遊牧民族の境界線」と言われるが、実際は草原の中に建っている。これは元の時代に北方の草原と南方の農耕を一体とした社会・経済が成立し、明も自国内でそれを実現すべく、北方への勢力拡大を行なっていたからである。そのため北方民族も南方の農耕民族の物産を必要としており、長城沿いに交易所がいくつも設けられた。ただし、交易はいつもうまくいっていたわけではなく、北方民族側の思うとおりにいかない場合もあった。その交易を有利にするための威嚇として、明の力が弱い時期に北方民族は長城を越えて侵入を繰り返していた。明末に満洲族(女真)が勃興し、後金を建国すると、明との間で長城の東端を巡り死闘が繰り返された。後金は明に対して有利に戦いを進めるも、名将袁崇煥に阻まれ、長城の東端の山海関を抜くことができなかった。しかし、袁崇煥は後金の謀略にかかった明の崇禎帝に誅殺された。その後明は李自成に滅ぼされ、後金から改名していた清は、明の遺臣の呉三桂の手引きにより山海関を越え、清の中国支配が始まった。

【北京ダック】

夜はお待ちかねの北京料理。北京ダックを食べてみたいので趙さんに連れて行ってもらった北京料理の店では最初に丸焼のダックが出てきてコックの人が手早く皮をはぐ。次のような要領で生まれて初めての北京ダックを頂いた。娘が趙さんに質問する。「どうして皮飲み食べて、肉の部分を食べないの」。趙さん答えて曰く「脂っこいのでみんな食べないの・・・」娘納得の表情。

1.薄く焼いた円形の餅を手のひらにのせ、甘みそを塗るまず薄く焼いた円形の餅を、手のひらにのせます。ちなみにこの薄い皮は「ハスの葉」をかたどったものとされています。いきなりネギやキュウリをのせるのではなく、最初は甘みそから塗ります。

2.肉・キュウリ・ネギをのせる甘みそを塗ったあと、北京ダックの肉・キュウリ・ネギなどを乗せます。あまりたくさん詰め込みすぎると、巻きにくくなるので注意が必要です。

3.折り曲げて食べる最後に折り曲げて食べるのですが、ここが重要です。最初に左右を折り曲げると、内側に塗った甘みそが、下からぽたぽたとこぼれ落ちてしまいます。上手に食べるためには、円形になった部分の下側を、先に折り曲げてから、左右を折り曲げます。すると、おしり部分の折り目がきれいに隠れますし、甘みそがしたたることがなくなります。

【雑技団鑑賞】

この日は、19:15から雑技団の鑑賞。工人倶楽部が金沙劇場として2009年にリニューアルしました。成都市雑技団と徳陽市雑技団が共同で制作演出した作品を見ることができる。一人380元でした。出し物は、最初が体操の床運動、曲芸自転車、ピエロ、柔軟な体を利用したグラス芸(左の写真)、綱渡りなど日本のサーカスと余り変わらない演出だった。娘曰く、「昨夜のカンフーの方が迫力があったよ。」しかし、伝統的な雑技団の演技を見ていると、日本のサーカスやオリンピックの体操の演技を思い出していました。体操競技における中国の層の厚さを感じた次第です。

 

■8月6日(月)

【天安門広場】

朝8:30分。私たちが泊まる北京麗晶酒店からほど近い天安門広場に行く。多くの中国人と外国人観光客が朝早くから並んでいる。最初に眼にしたのが毛主席記念堂。すでに長蛇の列ができていて、趙さんに聞くと、2〜3時間は列に並ばないと見えないという。中では防腐処理の上で保存された毛沢東の遺体を観覧できるようになっている。入り口の「毛主席紀念堂」の金文字の彫刻は華国鋒の揮毫という。残念!続いて毛沢東の写真を飾った天安門が目に入って来る。北京と言えば、まず思い浮かぶのが天安門。こがね色の瑠璃瓦、ベンガラ色の城壁、護城河といわれるお堀の白い大理石の欄干が印象的な城門は、北京のシンボルでもある。中央の門の上部には中国の初代国家主席毛沢東の像が掲げられ、楼閣の上部には国章(五星紅旗)が飾られている。

天安門は1417年(明の永楽15年)に築造され、承天門と名付けられた。その後、明の末期に焼失し、清の順治8年(1651年)に改築され、現在のように拡充され、その名も天安門と改称され、現在に至っているという。城楼は高さが33.7メートルもあり、高大な赤色城壁の上には5つのアーチ形の門があり、上には9つの"重檐歇山"型式の城楼がある。これは皇帝の「九五之尊」(九五は帝位を表す)を象徴するものである。赤い柱に黄色い瓦、華麗な色彩で壮麗に聳えている。城の壁の下の前後には一対ずつの「華表」が立っており、門の前には「金水河」、そして河に跨がる五本の漢白玉の橋がある。

 明、清の時代には皇帝の即位や皇后の冊立と言った重要な行事の際にここで詔書を発布した。有名な五・四運動は1919年にここで起こった。1949年10月1日、毛沢東が城楼の上で中華人民共和国の建国を宣言して以来、天安門は中国のシンボル的存在になっている。毛沢東主席の肖像が掛かっているこの天安門は全中国を代表する顔のような存在である。その荘厳、厳粛、壮大な城楼の形は中国の国章にもあしらわれている。ちなみ毛沢東の肖像は毎年新しいものに掛け替えられていると趙さんが説明してくれた。

天安門広場は都市の広場としては、世界の著名都市の中でも最大規模の広場である。南北方向の長さは880メートル、東西方向の長さは500メートル、面積は44万平方メートル。毎朝、荘厳な五星紅旗が旭日が昇ると同時に掲揚され、夕日が沈むと同時に降ろされる。広場の北側には天安門、西側は人民大会堂、東側に中国歴史博物館と中国革命博物館、南側は人民英雄紀念碑と毛主席堂。そして毛主席記念堂の南側は正陽門となっている。以下はウィキペデイアより抜粋した。 


【四五天安門事件】1976年4月5日に中華人民共和国の北京市にある天安門広場において、同年1月に死去した周恩来追悼の為にささげられた花輪が北京市当局に撤去されたことに激昂した民衆がデモ隊工人と衝突、政府に暴力的に鎮圧された事件、あるいは、この鎮圧に先立ってなされた学生や知識人らの民主化を求めるデモ活動を包括していう。1989年6月4日に起きた六四天安門事件(第二次天安門事件)と区別するため、第一次天安門事件ともいう。


【六四天安門事件】1989年6月4日に、同年4月の胡耀邦の死をきっかけとして、中国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し、中国人民解放軍が武力弾圧(市民に向けての無差別発砲や装甲車で轢き殺したとの報告がある)し、多数の死傷者を出した事件である。この出来事は、抗議者からの異議を寛大に取り扱っていた胡耀邦の死がきっかけとなった。胡耀邦の葬儀までに、10万人の人々が天安門広場に集まった。抗議運動自体は、胡耀邦の死の4月15日から続いていた。統一がなされておらず、指導者もいなかった抗議の参加者の中には、中国共産党の党員、トロツキスト、通常は政府の構造内部の権威主義と経済の変革を要求する声に反対していた改革派の自由主義者も含まれていた。デモは最初は天安門広場で、そして広場周辺に集中していたが、のちに上海市を含めた中国中の都市に波及していった。1989年6月の初頭、中国人民解放軍は軍隊と戦車で北京の通りに移動して実弾を発射し、天安門前を一掃した。ニューヨーク・タイムズのニコラス・D・クリストフ (en:Nicholas D. Kristof) は「正確な死亡者数は、おそらくは分かっていないだろう。そして、数千の人間が証拠を残すことなく殺されたかもしれない。しかし、今現在入手できる証拠に基づけば、400人から800人の民間人と一緒に、およそ50人の兵士と警官も殺されたことは確かなようだ」という。衝突のあと、中国当局は広範囲に亘って抗議者とその支持者の逮捕を実行し、自国の周辺でのほかの抗議も厳重に取り締まり、外国の報道機関を国から締め出し、自国の報道機関に対しては事件の報道を厳格に統制させた。天安門広場に集まった抗議者たちに対して公然と同情した総書記の趙紫陽(当時)は共産党から追放され、数人の高級党員の監視による自宅軟禁下に置かれた。通常、「天安門事件」という場合はこの事件を指す。中国においては1976年4月5日に周恩来が死去したときに発生した四五天安門事件(第一次天安門事件)と区別して「第二次天安門事件」とも呼ばれる。抗議者に対する中国共産党政府による武力弾圧に対しては、広範な国際的非難が集まった。ソビエトの公文書によれば、ソ連共産党政治局が受け取った情報報告では「3000人の抗議者が殺された」と見積もられている[7]が、正確な犠牲者数については分かっていない。

【紫禁城】

紫禁城の北側の景山公園からの紫禁城の眺め(中央手前は神武門)。とにかく広い。建物の数が常識を超えている。

天安門の右側の通路から中に入るとそこは紫禁城である。最初に目に入るのが「午門」である。私は、イギリスの中国学者で清朝最後の皇帝溥儀の家庭教師を務めたレジナルド・ジョンストンの『紫禁城の黄昏』(Twilight in the Forbidden City)を読んでいたし、映画ラストエンペラーも見ていたので、清朝の没落、愛新覚羅溥儀のことを思い出して複雑な気持ちで見学した。とにかく広すぎてどこを歩いているのかわからない。次から次へと・・・門の名前が見える。広大な敷地。映画のラストエンペラーの舞台となった紫禁城だが雰囲気は確かにある。紫禁城は元がつくったものを明の成祖永楽帝が1406年から改築し、1421年に南京から北京へ都を遷してから、清朝滅亡まで宮殿として使われた。1644年の李自成の乱で明代の紫禁城は焼失したが、李自成の立てた順朝を滅ぼし北京に入城した清朝により再建され、清朝の皇宮として皇帝とその一族が居住するとともに政治の舞台となった。1908年12月に、西太后が光緒帝の後継者として愛新覚羅溥儀を指名したことにより、溥儀はわずか2歳10か月で皇帝に即位させられ、清朝の第12代宣統帝かつ紫禁城に居を構える最後の皇帝となった。

1911年10月に辛亥革命が起き、袁世凱の求めを受けて1912年2月に溥儀は退位したが、中華民国臨時政府の「優待条件」として溥儀とその一族は、紫禁城の内廷での居住を許された。しかし1924年10月の馮玉祥による北京政変の際、11月5日を以って溥儀を初めとする皇族への紫禁城退去が通告され、その後は故宮と呼ばれルーヴル美術館などの例に倣い1925年10月10日に博物館として組織された。1949年に、中国共産党の指導者の毛沢東は城門の一つである天安門で中華人民共和国の建国を宣言した。1961年に、中国国務院より国家重要文化財、1987年にユネスコより世界文化遺産に認定された。現在は建物自体も明と清の歴史を伝える故宮博物院の文物の一つとして一般開放されている。

『紫禁城散策 いろいろ事始め』は紫禁城の誕生の章にその名前の由来を次のように述べている。『北極星は、常に北を示し、古来中国では方位や緯度の指針として崇められている。その北極星を「紫微星」(しびせい)とよび、「紫微星」を中心にした北斗七星やその周りの星座を「紫微垣」(しびえん)という。その「紫微垣」に架かる広大な天界は、古代から宇宙を治める天帝の宮殿と考えられていた。皇帝の住まいは禁地、禁城といい、この二つを組み合わせた「紫禁城」は、天帝にかわって、地上を治める皇帝の住む宮殿を意味している』

【天壇公園】

続いて、天壇公園訪問。藍色の瑠璃瓦が青空にみごとにマッチする祈年殿。北京のみならず中国をも代表するこの美しさは、訪れるものに中国の広大さを感じさせずにはおられない。

北京の地図を広げると故宮を中心に日壇公園(東)、月壇公園(西)、天壇公園(南)、地壇公園(北)があるのが分かる。「壇」とは、皇帝の祈祷場で、昔は「皇帝の庭」と言われていた。中でも天壇は、自分を天子として天帝を祭るため最も重要な場所となる。もとは城外に設けられていたが、地壇同様、明代嘉靖の外城工事の際、城内に取り入れられた。壇廟建築では、中国最大を誇り、明清二代の皇帝が天を祀り豊作を祈った。明の永楽4年(1406年)に設計施工し14年をかけ永楽18年(1420年)に完成した。祈念殿、皇穹宇、園丘と一直線の配置は明快かつ見る人を魅了する。


市民の公園としても親しまれており、メイン通路を外れるとダンスに興じる人や二胡(中国バイオリン)の調べにのって歌を歌っている人、トランプカードをしている人など市民の生活を垣間見るのも楽しい。観光客は多かったが、やや期待外れでした。右の写真は公園内を散歩しているときに出会った結婚式の記念写真を撮影しているときに便乗して撮影した一枚。パートナーの男性はかなり高齢だったのに女性はとても若く、趙さんに言わせると「玉の輿を狙った結婚だ。マンションを持たない男は北京では結婚できないのです」

【京劇の鑑賞】北京梨園劇場/京劇チケット予約

 北京と言えば京劇。梨園劇場は、ホテル『前門建国飯店』の1階にある劇場です。劇場は、客席前方がテーブル席、後方がイス席(シアター席)となっております。テーブル席では中国伝統芸能である京劇を中国茶、お菓子を食べながら楽しむ事ができます。梨園劇場の特徴は、公演前に役者が化粧している様子を見ることができます。言葉の問題は、日本語ガイド付ヘッドホンの貸出しや、英語字幕もありますので、北京京劇をより深く理解出来るようになっています。一人280元でした。芝居が始まる前に役者がお化粧をしている姿が印象的でした。芝居そのものは、日本の能と狂言のような構成になっていて、能の部分は居眠りをしていました。狂言てきな場面では、暗闇の中で相手の姿が見えない前提で二人の役者が戦うシーンがありました。場内は爆笑の連続でした。ここはホテルの中の劇場で、観客席の前方はテーブル仕立ての構造で、各グループが食事をしながら観劇できるようになっていました。私たちは食事の後で、後方のシート席で鑑賞しました。それでもお酒や簡単な食事をしながら鑑賞している人たちが多かったように思います。ヘッドフォンで通訳の音声を聞きながら鑑賞することもできるようです。

■8月7日(水)

いよいよ帰国です。前夜、趙さんに無理を言って盧溝橋と北京動物園に連れて行ってもらいました。

【盧溝橋】

盧溝橋は北京の中心部から南西へ15kmほど行ったところに、マルコポーロが「世界で唯一無二の美しさ」と絶賛した橋です。それが「マルコポーロ橋」、またの名を「盧溝橋」。盧溝橋は1192年に完成した現存する北京最古の石造アーチ橋です。全長266.5m、11個のアーチからなっていて、両脇の欄干には、すべて異なる石獅子が501匹鎮座しています。なんども修復されており、康熙帝の自筆の記念碑なども見ることができました。先の日中戦争のきっかけとなっと場所のせいか、抗日記念館などもそばにあり、なんとなくはばかられる雰囲気がありましたが、意外にも日本人観光客の姿が少なくなかったようです。

 

 

 

【北京動物園】

最後は北京動物園でパンダを見に行きました。上野動物園に行ったことがないので、パンダは見ていません。15年ほど前にロンドン動物園にやはりパンダを身に行ったのですが、疲れていたのかその姿を見ることができませんでした。今回は、ちゃんと見ることができました。最初のケージは総ガラス張りで、ガラス越しに見たのですが、あまり印象が深くありませんでした。次のケージでは生パンダを見ることができました。最初、暑いのか、通風口の方を向いていて顔が見えませんでしたが、最後にやっとサービスしてくれてやっと顔を正面から拝むことができました。謝謝!

北京動物園を最後に、一路北京空港に、向かいました。全て高速道路を利用しました。意外にも、北京の道路網は整備されているので、北京は観光にはとても便利な場所になっているようです。