午後十時の京大時計台のサイレン
春暮れて
ローマ数字や
時計台 惠一
(有馬朗入主宰『天為』
文学部の先輩の父、三谷久男がおよそ40年間副校長を務めた奈良育英高校時代に、パール・バックの『母よ嘆くなかれ』を読んだ。京大へ進学して、湯川秀樹博士と創造性研究を進めておられた園原太郎教授の講義で外因性知的障害者の因果関係が京大病院のカルテをいくら研究しても分からないことを知り、昭和36年3月卒論からラットを用いた因果行動発達心理学を追い求めた。その結果、カナダのヘッブ(D.
O. Hebb) が主張している視覚的パターンの知覚学習
(perceptual learning) のメカニズムに突き当たり、人類の幸福のためにその徹底的追求と、治療と予防を超えて第三の道である“促進心理学”の創設に生涯を捧げる決心をした。夕方5時から30匹の夜行性白ラットを相手に一入木造の旧心理学実験室に籠もり、10時のサイレンが吉田の里に鳴り渡るまで実験した。京都駅発23時4分の最終近鉄電車で奈良に着くと0時5分であった。
平成17年4月、以文会50周年記念総会に奈良の白宅、翠月庵経由で参加したところ、法経第1教室のあった荒れ狂った時計台はすっかりリフレッシュされていた。フランス風とイタリア風レストランが設けられ、見上げるカーテンにシャンデリアと柱飾があり、三高生の個室等の京大の歴史が、行動科学的に正しく伝統を保持した“右から左回りに”展示してあり、観光バスも発着しているという。教養部も総合人間学部としてリフレッシュされ、三高の白由の鐘が屋上に復元され、日没から壁面に時計台が映える。時計台正面の楠はご今宵も盆栽のように大きさの恒常性を保持している。
デカルトの方法的懐疑と心身・身心の二分法(dichotomy
between body and mind)を教わった上田泰治教授と野田又夫教授にも感謝の意を表したい。本年、岡山大学工学部「総合工学一ロボットと人間」の3回講義のなかで、人体解剖の研鎖やハーベイの『動物の心臓と血液に関する解剖学的研究』(1628)をおそらく読んだ上で神経、筋肉、脳室からの精気の運動など“人間機械論”を展開したデカルト(1641)のロボットを明蜥・判明にすることとしている。フランス語やラテン語を駆使した2か年分の数冊の野田講義のノートの他に、教養1年の時の上田教授の49年前のノートがある。
“身体”を入間機械と見立て、別に“精神” があり、そのうち生得観念は先験的(a
priori)に実在するとcogito,
ergo sumを説きながら主張したデカルトの考えは、チョムスキーの言語論ばかりでなく、パターン分析の基礎は後頭部視覚領17野の遺伝子により構築されている方向特定細胞が関与していることを発見したヒューベルとウイーゼルのノーベル賞研究からも強く想起されてくる。その遺伝子にかなう三角形の知覚学習は身心の発達を促進し、ゲシュタルト心理学が最少エネルギーの法則に基づき“良いかたち”とした円の知覚学習は身心を破壊することを岡山大学で発見することができた。誤りのない哲学と“神経一筋回路の知覚学習に基づく成熟”を理論化した精神生物学を統合しながら、工学部、医学部が開発するロボットに“心”を入れられるか否かが最大の論点となってきている。ここからも示唆されるように、775兆円もの負債を抱えたわが国が蘇る道は、京大文学部の世界的視野の教育研究に依存するところ大である。
大学院に進学して困惑したのは、講義が学部と共通のものが多かったことである。学部3年、修士2年、博士3年の7年間を共通にする科目が残っているのならば廃止にして頂きたい。研究会の原書講読を移設した英日バイリンガルの大学院(MC
and/or DC)講義・演習を切望していた。博士の学位を取得するために世界から大学院に進学する学生は、高度な教育研究環境に憧憬と誇りを抱いている。昭和39年東館増築に伴うゴタゴタにも、工作室や動物実験室が無いまま旧心理学実験室からの退去の他に、吏学科以外の各講座に大学院生研究室を獲得したいという切実な願いがあったのである。今は跡形も無いその心理学実験室は、1879年ライプチヒにヴントが創設した世界最初の実験室を模して、99年前の1907(明40)年初代松本亦太郎教授が芸術性豊かに日本最初の実験室として創設した。
「あんたとこの実験室入ったとこの、大っきな置き時計止まっとるやないか!」教養グランドにおける全学挙げての園遊会でビール片手に井上智勇教授が絡んでくる。私は即座に「ヴントの実験室の時計も止まっていたのです」と答える。錐体外路系研究者の平沢興総長が握手を求めてくる。座り込んだ総長の巨大な禿頭を撫でた。昭和24年岡本春一博士によって創設された岡大法文学部心理学実験室には平沢総長寄贈のヒトの脳脊髄があり、昭和40年第二代野上俊夫教授の蔵書2,457冊が岡大図書館に迎えられた。
以文会岡山支部の活動50年を振り返ると、昭和30年『以文會會報』第一号に評議員内藤集輔(大10年支那史)、支部・内藤、内田律爾(大4教育)、熊仁事教(昭3印哲)、木畑貞清(昭4国文)、藤井駿(昭5国史)、江貴(昭5言語)とあり、岡大津島倶楽部で小規模な会合をもっていた。
昭和56年に新支部長大熊立治(昭5国吏)、新幹事由比濱省吾(昭27地理)、三谷惠一(昭36心理)、木下鉄矢(昭49中哲)、横山茂雄(昭53英文)とし、更に由比濱会長、三谷、河合保生(昭50地理)、古川義入(昭63宗教)の3幹事に改めた。第二に仕事の側面(performance)として名簿の更新、研鎖、フィールド現場主義を採り、第二に入間の側面(maintenance)として支部会員自身による講話、懇親会、白己紹介の重視を統合したPM式重複幹事システムを展開している。『以文』に報告したフィールドは岡山美術館、岡山市立オリエント美術館、吉備津神社、林原美術館、岡山県立美術館、六高創立95周年群像、黒住教本部、金光教本部、牛窓町服部邸、内村鑑三を招いた元津山基督教博物館である。黒住宗晴教主邸懇親会では、平沢総長の“敬神尊入”が慈顔を垂れていた。田邊元の研究者、川島咳三氏(昭42M哲学)が津山在住とわかり「田邊元の晩年とその後」が『以文』48
(2005年)に掲載された。
(京大以文会岡山支部岡山大学名誉教授心理学1961年卒業)