駐車位置9:03=9:09登山口−9:25見張所−9:40天神地蔵−9:50三の丸−9:57天神山城跡本丸−10:21天神山=軍用石=10:25三角点10:34=10:36天神山−10:52分岐下山口−11:11分岐侍屋敷入口−11:17登山口=11:20駐車位置
今日は佐伯天神山(てんじんやま409m)を訪ねる登山支度をする 車載温度2℃を示すもののさほど寒さを感じない ウインドウブレーカーはリュックに入れて出発する 左手に吉井川を見ながら歩く 河本のバス停があり そのすぐ近くに神社(天石門別神社)がある 神社右手に白い梅の花が咲いていた 片鉄ロマン街道と書いた案内板もあった 神社の裏手にあたるところが河本登山口になっている 神社を過ぎその角を右に曲がるとトイレがある その後の斜面を登って行く 天神山城址登山口と書いた大きな標識があり そこから登山道に入る
いきなりの急登である ジグザグにルートを登って行く枝を掴んだり 岩に手をついたりして登る ルートを登るのを禁止するかのように 古木が通路を塞いでいた 登山禁止であればその旨何か標識があっても良いのに、それは無い 周辺は結構荒れている 昨年の豪雨の影響かも知れない 古木を動かし跨いで抜ける そしてルートを登って行く すぐにロープが設置してある岩のところに出る 今日はロープを掴み登って行く ロープを過ぎたところで振り返ると岩の先に吉井川を眼下に見る事ができる
尾根に沿って登って行く 振り返って吉井川を見る事が出来る場所が幾つもあり 高度を稼いでいる事がわかる 見張り所と書いた標識のところに出る 昨年4月に訪ねた時見張り所の標識がひっくり返されていたと記しているが 今日はしっかりと設置されていた
まだ登りが続く 時折振り返り吉井川の景観を楽しむ また樹間からも吉井川を伺う事が出来る ソヨゴでも見つけられないかと探すもののソヨゴの木は幾つも見つけるが赤い実は見つけられず登って行く 天神地蔵と書いた標識を右に見て 天神地蔵には寄らず登って行くと三の丸に出る 三の丸には休憩所が設置されており樹間に吉井川を俯瞰出来る 三の丸から天神山城跡を経由し太鼓丸に向かう 説明板が随所に見られる 今回も2013/1/29の記録をコピーしておこう
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下の段 西櫓台を経て 先程見えた東屋のある三の丸に出る 帯曲輪と称されるなだらかな尾根道が続き 鍛冶場 桜の馬場 長屋の段 二の丸 空堀 と続き 本丸に出る 本丸には天神山城跡の標柱と浦上遠江守宗景之城址と記した大きな石碑があるここから太鼓の丸まで700m 飛騨の丸 竪堀 馬屋の段 南櫓台、南の段 南櫓 掘切り 亀の甲 下の石門、上の石門を過ぎて山頂に出る 山頂には天神山鳥瞰図を示した案内図がある また、北の方角に棚田(田土の棚田)が見える ここには以前山頂と書いた木片がぶる下がっていたが見つからなかった でも山頂として考えて良いのだろう
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下の段
隠曲輪で西方より侵入して来た敵を上から攻撃する郭で、五十騎一備の桝形である。
三の丸
三の丸とは通常、二の丸と同様に城主の館、もしくは重臣(家老格)の屋敷が置かれていた。城本来の機能的構成部分の外郭に相当する。虎口は他の曲輪と比べて厳重を極めている。
帯曲輪
帯状に細長い曲輪もしくは城のまわりを囲む曲輪をいう。帯状にならなく短い曲輪を腰曲輪という。
鍛冶場
城の拡幅工事に必要な器具の製造・修理・武具・武器の確保のため鍛冶職人を常に置いていた。
桜の馬場
連郭式山城最大の曲輪、両側面には帯曲輪・腰曲輪・犬走りなどが有る。中央北側に大手門があり、西隅に鍛冶場があった。
大手門跡
櫓門で四本柱の上に矢倉を築いたもの。大手門外の帯曲輪は、百貫井戸の水の手曲輪がある。
長屋の段
倉庫があり、鉄砲櫓・食料櫓・武器櫓などがあった。
二の丸
本丸を保護するいわば第二の拠点である。
空堀
水が無く、断面がV字形である。本丸防衛の為の掘割である。
本丸
連郭式山城の中心郭で戦の場合城主の本陣となる。
天津社
城には古来、守護神が付き物である。天文二年本丸築城の時、山麓に遷宮した。(現天石門別神社)
侍屋敷
この下に宏大な侍屋敷 見事な石垣に囲まれた物資貯蔵曲輪がある。
飛騨の丸
宗景の重臣明石飛騨守景親の屋敷跡。野面積の石垣は代表的な築郭法である。
竪堀
中世の山城に多く見られる空堀の一種である。山の斜面に直角に作った空堀をいう。
馬屋の段
本丸で通常使用する馬屋で、戦争の場合は三の丸に臨時的につくる。
南櫓台
太鼓の丸と本丸との連絡と、城外と城内をみまもる目的がある。
南櫓
隠曲輪で敵兵が城内に侵入してきた際に堀切の敵を上から攻撃する曲輪。
堀切り
山城に用いる空堀で、尾根を包丁で切った感じの空堀である。
亀の甲
旧天神山城防衛の為に敵が塁をよじ登って来た時、石落し用としての石積の小山。
石門
旧天神山城防衛の為の門である。
太鼓の本丸(旧天神山城)
室町時代以前に、日笠青山城の出城として日笠氏が築城したもので、浦上宗景の亨禄四年天神山出陣の足掛かりとなり、天文時代より太鼓櫓として物見台の役目と家臣団集合の合図をした役目の櫓「人桝」と呼ばれ、東方に根小屋が有り搦手門となる。
こうして見ると21もの説明板があったのだ 書き写す事で改めて説明文を読んだ 亨禄四年は1531年 天文二年は1533年との事だ
下の段から鳥瞰図の案内図がある太鼓丸までのルートでヤブツバキ コウヤボウキの綿毛を見つける事が出来た また、鳥瞰図を示した案内図は倒れたままだった 岩があり北の方角に棚田を認める事が出来る 登山口にあった片鉄ロマン街道の説明板から田土の棚田と呼ばれている事がわかった太鼓丸から更にルートを行くと軍用石を過ぎ 三角点に出る 三角点のところにネジキ*の実が残っているのを見つける 記念写真を撮り下山する
下山は、太鼓丸 城跡本丸と戻り 本丸から天瀬登山口に向けて降りて行く 結構傾斜のある下り坂 ルートは枯葉で埋もれている 足元に注意しながら降りて行く 途中ルートが判別しにくい所があったが深追いせずに探し、ルートを見つけ降りて行く ここでもヤブツバキが咲いていた 侍屋敷跡には向かわず登山口に下山 片上鉄道跡のサイクリングロードに出る 出たところに大きな案内標識があるサイクリングロードを横断するようにしてルートを降りて行き国道に出る 国道を行き車の所へ
日の出前に倉敷を出発 車載温度は0℃ 平日なので岡山に入るまでの渋滞が気になる 信号1回待ちのところもあったもののたいした渋滞は無く岡山市街地のバイパスに入る ここまで来ればその先は信号は無いし、スムーズに流れる筈と思いきや 入ったところですぐ流れが止まる エ!− 事故でもあったのだろうか? 少し動いたかと思うとすぐ停止 動きもノロノロ 前方が見通せるところに来ると 前は車で埋まっている どこまで続くのか心配になる 対向車線も似たような感じでノロノロ運転 国道30号線の立体交差を過ぎてもノロノロ 旭川大橋にかかる辺りから右側の車線が流れるようになり 側道を含めて3車線になったところから普通に流れるようになった という事は平日のこの時間はいつもこのような渋滞が発生しているようだ 帰路の所要時間と比較すると1時間は余計にかかっている 岡山市街地を抜けたあとは流れは順調 バイパスを抜け国道2号線をそのまま走る 熊山を左に見て車を走らせ JR伊部駅を過ぎ伊部東の交差点を左折して374に入る 和気インターチェンジを過ぎると和気の市街地に 金剛川を渡ると左手に吉井川が見えてくる 吉井川に沿って走る 新田原井堰を抜け、少し走ると 右手に天神山登山口と書いた大きな標識が見える 天瀬登山口だ 登山口の近くの道路脇の空地に駐車させて頂く 車載温度計は2℃