駐車場所6:50−6:56経塚−6:58お墓X−7:23福山城跡−7:28分岐A−7:32妙見展望台7:33−7:39分岐A−7:41分岐B−7:43猿田彦神社−7:44分岐B−7:49分岐C−7:52和霊神社7:53=8:08自動車道=8:41広谷池=8:57分岐C−9:04分岐B−9:07分岐A−9:10福山城跡−9:21案内板−9:31お墓X−9:36駐車場所
今日は福山(ふくやま 標高302m)を訪ねる福山を訪ねたのは1995/7/15で25年目 事前調査もせずに25年前の記憶を頼りになんとか安養寺には着いたが、さっぱり思い出せない 駐車場には幾つか案内板がある 私が駐車した場所のすぐ近くに 浅原探鳥コースと書いた案内板があり 福山城跡へのルート紹介があり頭に入れる 駐車場の出口付近に 中国自然歩道とは*1) 浅原郷土自然保護地域*2) 福山ハイキングコース*3)の案内板があった ハイキングコース図を見ると和霊神社を経由して西坂台グリーンライフに出られるようだ 25年前西坂台を経由して周遊した事を思い出した
ここにこれだけ丁寧に案内板があるのであれば ルートにもいろいろあるだろう 取りあえず福山に向かってみよう ルートは安養寺の境内を抜けるようなので石段を登って行く 鳥居を潜る 鳥居の上に大毘沙門天王鎮座があり圧倒される 石段を登ると左手にオレンジ色の多宝塔高さ26mあるとの事だがこれも圧倒される 前回訪ねた時、ここを通ったのだろうか? 思い出せない 石段を登った右手には朝原山安養寺4*)の説明がある 帰宅後なんとか解読しておいた 案内板の背にシャクナゲが花を咲かせていた
多宝塔の前を通り左方向に進むと参拝道の案内と福山城跡への案内標識があり それに従って坂を登って行く 坂の左手に東屋があり右手石垣に観音様が幾つも埋め込まれている33観音厄除坂と言うのかも知れない 1,2分登ったところに分岐があり農道コースと山道コースとなっているがどちらも福山に行くようなので山道コースを行く
山道コースを少し登った地点に安養寺裏山経塚群*5)と書いた説明板があり 発掘された場所を示す標識があった また霊魂不滅と書いた石像のある墓地を見ながらルートを行くと広い道に出る 恐らく農道コースと合流したのだろう ルート右手が開け果樹が見られ福山のピークも臨める キュウリグサ コメツブウマゴヤシ カラスノエンドウ ヤブツバキ ノゲシ アカバナユウゲショウ ムラサキカタバミ ニラ ハマダイコンなどが顔を見せてくれる アカバナユウゲショウは調べて判った花 そして福山を歩こうと書いた案内図がある分岐に出る
案内図によると浅原コース 上の横道南コース ゆっくり廻り道コースの分岐点にあたるようだが 登りの時点ではこの案内図に気付かず直進して浅原コースを進んでいる 次回訪ねた時分岐の状態など確認しておこう
ルートを登って行く 駐車場に設置されている浅原探鳥コースの案内図にある健脚コースらしい これまでより道幅は狭くなり勾配もあるが長く続かない 三の壇の碑を見て福山城跡広場に出る ルートではコバノガマズミ コバノミツバツツジに出合う事が出来た
山頂広場には延元元年古戦場福山城阯と記した石碑や東屋があり西側の清音の市街地を伺う事が出来る また、湊川決戦一週間前備中福山合戦*6)と記した説明があり、並んで国指定史跡「福山城跡」山頂案内図がある 図によると和霊神社から安養寺に向かうルート記載があり 和霊神社経由で戻れそうだ
山頂広場を後に和霊神社へ向けて降りて行く ルートを行くと妙見展望台300mという案内標識があったので立ち寄って見る 4,5分で展望台に出る 途中分岐があった、分岐を行くと幸山城跡に行けそうだ 機会を見て歩いてみよう 展望台には東屋があり福山山頂展望台と似た清音の街並みを俯瞰出来る 展望を一望して分岐に戻る
和霊神社に向けて降りて行く すぐに分岐があり猿田彦神社150mとある こちらも寄ってみよう ほぼ水平移動 三十四番石像などがあり、石段を登と猿田彦神社に出る 狛犬のかわりに猿が彫ってあるとの事だが残念ながら気付かなかった 神社を見て分岐に戻る
分岐を和霊神社へ向けて降りて行く 5分程降りると広い道路に出る さてどちらへ行こうか 前を歩いていた人が左手方向に進んで行くのが見えたので、左方向へ進むと和霊神社だった ノゲシ ウマノアシガタが陽射しを受け輝いているのを見て神社に行き参拝する 神社には和霊神社*7)と書いた説明があったが 周辺案内図は無かった
先ほどの方は神社正面の石段を降りて行かれたので私もその後を追った これまで歩いてきたルートより道は狭くなり ジグザグで結構勾配もある 降りて行かれた方の姿は見えないがルートはしっかりしているので迷う事なく追って行ける ウマノアシガタが沢山さいている中を抜けたり 石段のようなルートを降りたりしてゆくと和霊神社400mと書いた標識があり 更に降りると大きな石柱と果樹園を通って 自動車道に出る
自動車に出たところには和霊神社を示す標識が設置されているが安養寺はどう行ったら良いかわからない 山を右に見て行けばなんとかなるだろうと自動車道を行く 道路右手に工場のようなものがあったが企業名は確認出来なかった 帰宅してGoogleMapで調べてみたら松本コンクリートと判明した
その時点では自分がどこにいるのかがわからない 山を右に見て道路を行く 左手に池が見えてきて その先を自動車が結構流れる やがてそれは429だとわかる 山頂で見た案内図によれば西坂台の団地を回らなくても安養寺に戻れそうだったので 西坂台の団地が見えたがそちらへは向かわず進む 広谷池と標柱のある池を左に見て歩いて行くと 日差山→福山縦走コース と書いた案内を見つける これを行けば良さそうだと一安心する ルートは登りとなる 広谷池から15分程歩いたら あれ? 和霊神社手前の分岐に戻ってきた 案内板を反対方向に行くのだったのだろうか? ほぼ1時間さ迷った次第
この間に出合った花は次のとおり コメツブウマゴヤシ オニタビラコ ムラサキサギゴケ ノゲシ マツバウンラン キュウリグサ ハハコグサ カタバミ レンゲ アメリカフウロ ニガナ イモカタバミ セイヨウカラシナ ノヂシャ オカタツナミソウ 結構楽しめた
周遊ルート探索はあきらめ登ってきたルートを戻る 途中数名のかたとすれ違う 駐車場には10台近く駐車していた−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
*1)中国自然歩道とは
中国自然歩道は、中国5県を一周し、それぞれの地方に残された美しい自然のなかを歩いて、豊かな自然に親しみ、また、郷土の歴史や又化にふれて、私たちのふるさとを見直すための長距離自然歩道です。
岡山県では、自然歩道を5つのルートに大別し、さらに各ルートを1日で楽しめるよう、合計43のコースに区分しています、主な見どころ
●軽部神社(かるべじんじゃ)
延宝六年(1678)建立。昔、境内に垂乳根の桜と呼ぱれる、枝垂れ桜があったことから、乳神様として庶民の信仰を集めた。安産や母乳の出を願うため手作りの絵馬が数多く奉納されており、女性達の信仰を集めている。
●福山城跡(ふくやまじょうせき)
「太平記」に記された「福山合戦」の地として有名。室町幕府が開かれる少し前(1336年)、、京都の戦いで敗れた足利尊氏は九州に逃れ、再び都を目指し、瀬戸内海と山陽道にわかれて攻めのぽった。このとき、後醍醐天皇方の新田義貞軍の武将・大井田氏経は福山を占拠し、その東上を阻むためにこの城へ立てこもった。
●安養寺(あんようじ)
安養寺は平安時代より、朝原寺は更に古く、徐福渡来の蓬来山、七福神の里とLて、祈りを現代に受け継いでいる、弘法大師空海修行の地、栄西国師出家の地として、また全国十選の花の寺、倉敷探鳥会発祥の地など、自然を愛好する人々の安らぎの場ともなっている
*2)浅原郷土自然保護地域
この地域は、郷土のすぐれた自然を保護するため、岡山県自然保護条例に基づき指定された地域です。
1 位置 倉敷市浅原
2 面積 5.22ha
3 指定年月日 昭和48年(1973年)11月29日
4 特徴
安養寺を中心とするこの地一帯は、平安時代には大小数十の寺院が霊地を形づくり、中国地方の仏教の聖地として栄えたと伝えられ、また、国指定重要文化財である毘沙門天立像や吉祥天立像、県指定史跡である経塚など、多くの歴史遺産が残されています。
周囲を取り巻く山林は、アカマツを主体として、アラカシ、ソヨゴ、ヒサカキなどの常緑広葉樹を混じえた植物層が、都市近郊に残された価値ある自然環境を形成しています。
5 行為の制限
土地の形質変更、土砂の採取、木竹の伐採、工作物の設置等を行うときは、あらかじめ届出が必要です。
責重な自然の保護にご協力をお願いします。
岡山県
*3)福山ハイキングコース
所要時間 山頂まで約1時間
山頂より幸山城跡往復釣1時間半福山は、倉敷周辺では一番高い山で、古戟場として有名、遠い昔をしのびながら家族連れハイキングきするには最適な山です。山頂より小鳥の嘲りを聞き、樹林帯の中を下って行くと、幸山城に着きます。
幸山城跡より眺める吉備路の展望はすばらしく、往時の城を空想してみるのもヌ楽しいではありませんか。
福山山頂からは、晴れていれば遠く四国山脈を、又吉備平野から中国山脈に連なる山並みも美しく眺めることができます。山頂直下の猿田彦神社には古井戸があり、冷めたい井戸水を飲むこともてきます。一日中のんびりとしたハイキングき楽しんでみて下さい。
倉敷市
*4)朝原山安養寺
安養寺の創建は奈良時代 仙人 救世の行者と賛される高僧報恩大師(−795)国家祈願の寺として開山 朝原千坊の中院として存在し 13世紀には現在の浅原の谷一帯に朝原寺と総称される寺院が建ちならんでいたと思われる 安養寺裏山経塚出土の応徳3年(1086)の瓦経願文に「安養寺」の文字が刻まれている また 13世紀に書かれた「源平盛衰記」に 鹿が谷の変で治承元年(1177)、備前に流された大納言藤原成親が 備中国安養寺に調御坊という僧を請して備中国朝原寺にて出家受戒したとある
安養寺は、享保2年(1717)以前には、現在地より二町(約220m)あまり南にあり、池田家文庫などから、客殿・庫裏を備えた 朝原寺一山の本坊であったことがわかっている。
*5)安養寺裏山経塚群
平安時代末期に流行した末法思想のより正しい経典を後世に残そうと、経文を地中に埋納する風習が行われた。ここは、このように経文を埋納した経塚群として知られている。調査された経塚は三基あるが、一基は経筒に納めて石組みの室に埋納したもので、他の二つは板瓦に経文を刻みこんで埋納した「瓦経塚(がきょうづか)」とよばれるものである。
第一経塚は昭和十二年(1937)に、第二経塚は昭和三十三年(1958)五月に、第三経塚は同年六月に発見され、第三経塚は同年十二月正式発掘調査された。
第三経塚から発見された経瓦の願文の中に「應徳三年春二月於安養寺」と記されているが、この年号は、西暦1086年にあたり、この経塚の年代を知る貴重な資料となっている。
なお、第一経塚から出土した一括遺物は、国指定重要文化財となっている。
倉敷市教育委員
*6)湊川決戦一週間前備中福山合戦
海抜302mのこの福山は往古 神奈備(カンナビ)山、加佐米山、百射(ヒモイ)山とか言われたが、山岳佛教が栄えた奈良平安期 報恩大師が頂上に福山寺及び十二坊を建て伽藍(ガラン)が全山に並び繁栄を極め福山と呼ばれるようになった。
後醍醐天皇念願の親政が復活したが建武中興に加わった足利尊氏が論功行賞に〇〇(フンマン)を抱き天皇支持勢力の新田義貞、楠木正成等と対立した。この結果、尊氏勢が九州へ敗走し軍勢を立て直して再び京都を目指して東上を開始した。福山合戦はその途上の延元元年五月におこった。
足利直義十六日 朝原峠より攻撃を開始したが、城兵撃退す、十七日四方より総攻撃をかけ、城兵は石火矢、岩石落し、弓矢にて二万餘の死傷者を出したが 新手入り変り立ち変り遂に乱入され火をかけられ落城となった。大井田氏経一千騎引連れ山下の直義の本陣になぐり込み奮戦したが、味方は百騎程になり山上は火の海、氏経はこれ迄と部下を集め三石の本陣に加わらんと一方切り破り逃れた 福山城落城後直義は敗走する氏経を追い板倉より辛川まで十余度交戦を続け三石城へ逃れ去った。
直義は足利勢をここで休養させ首実験をして戦功を賞した。討首千三百五十三を数えたという。
*7)和霊神社 `
和霊神社は伊予の国、宇和島藩の家老職、山家公頼こと清兵衛を祭神としています。死をもって藩政をよくつかさどった清兵衛の忠節ぶりが、多くの人にたたえられ宇和島に和霊神社が建立されました。
岡谷の和霊様は、天明年間(1781−8)の頃にその分霊をお祀りしたとみられ、悪疫を鎮め勝運の神様として近郷の人々から崇拝されています。
山手村文化財保護委員会
新型コロナウイルス対策として全国に緊急事態が出ている 人との接触を避ける事もあり、滅多に人と出会う事がない 実僧坊山を訪ねようと倉敷を出発 時刻も日の出を少し過ぎた頃 倉敷の車載温度は12℃ 吉備路429を行き県道271そして砂川公園と過ぎる 鬼ノ城へ向かう狭い道路に入ると 市外県外からの来場は遠慮くださいという趣旨の看板がいくつも設置されている そうか市外もいけないのかと車をUターン出来るところまで走り戻る事に 山歩きをしたくて早朝に出発したのでどこかで歩きたい 砂川公園に置いて登ろうかと思ったが ここも市外 さてと思いついたのは福山 安養寺から登った事が記憶に残っている そこまで行けばなんとかなろう
429吉備路を戻り 倉敷インターチェンジの信号を過ぎた次の信号で右折する さて 安養寺へ向かうルートだがこの周辺新しい道路が出来すっかり変わってしまっている カーナビを装備していない事もあって、あっち行ったりこっちへ行ったりしてやっと安養寺の駐車場にたどり着く 駐車場には駐車している車は無い 車載温度10℃
ちなみに新しく出来た道路は県道469で2013/9/12 倉敷市平田(国道429号)−同市浅原(浅原峠)間のバイパスが供用開始 という情報があった