福山



標高 302m    難易度 ☆     登り31分  猿田神社幸山城跡等周遊77分   岡山県
倉敷からの距離   7Km        登頂日 2020/07/02   ガイドブック F写真 動画

駐車場所8:32−8:50分岐A−9:03福山−9:07猿田彦神社−9:09分岐−9:12分岐−9:17妙見展望台−9:19合流−9:21分岐9:22−9:28分岐−9:29分岐x−9:33幸山城跡9:36−9:40分岐x−9:54分岐−10:02分岐−10:04分岐A−10:18案内板(八幡宮)−10:24駐車場所

登山
 今日は福山(ふくやま 標高302m)を訪ねる

 今日も突然の予定変更で、準備していた地図は持ってきていない でも 前回訪ねたルートを地図上で確認してポイントを掴む事が出来た 確認しておきたいと思っていた事は 安養寺−福山登山道で上の横道と言われる分岐点の確認 福山山頂から猿田彦神社に直接向かうルートと猿田彦神社の狛犬が猿である事の確認 妙見展望台から幸山城跡へのルートの確認 である
 
 登山支度と言っても登山靴だけ履き リュックを背負わず出発 曇り空で朝の冷気はまだ残っているのか心地よい リュックを背負っていない事もあり足はぐっと軽い 中国自然歩道とは*1) 浅原郷土自然保護地域*2) 福山ハイキングコース*3)の案内板をさっと見て 大毘沙門天王が鎮座している鳥居を潜り安養寺境内に出る アジサイがあちらこちらに見事な花を咲かせていた 朝原山安養寺4*)の説明があるのを確認し 多宝塔を右に 宝物殿を左に見てルートを行き福山城跡の案内に従い坂道を登る 坂の左手に東屋があり33観音厄除坂と呼ばれているようだが右手石垣に観音様が幾つも埋め込まれている 1,2分登ったところに分岐があり農道コースと山道コースとなっている今日は農道コースを行く(山道コースを行くと 安養寺裏山経塚群*5)と書いた説明板や霊魂不滅と書いた石像のある墓地を見る事が出来る) 農道コースはこれと記載するものは無く 山道コースと合流する

 ルート右手前方に果樹園が見えてくる ルートには花が顔を見せる ツユクサ ミゾソバ ベニバナマメアサガオ アカバナ ノゲシ ホットリップス セイヨウタンポポ ウキツリボク ホタルブクロ オオバギボウシ デイリリーなどを見つける カタバミ ムラサキカタバミ オオイヌノフグリはこの時間帯ではまだお休みだったが 帰路には花を開いていた 果樹園では桃に赤い袋がかぶせられていた 下から覗くと桃の実を確認出来た
 
 ホットリップスとデイリリーは山では出合った記憶が無い 特徴のある花だが山野草のページを検索しても見つからない ダメ元でgoogleの画像検索をトライする 撮った写真そのままでは花よりは周辺の草と類似の写真を検索してきた トリミングして花の特徴が掴める画像を用いて検索したら ヒットする事が出来た 園芸種として広まっている為かも知れない
 
 果樹園を過ぎるとまもなく福山を歩こうと書いた案内図がある分岐に出る 今日は案内板を確認出来た 左へ向かう分岐があり 上の横道コースに向かっているものと思われた そのまま前回同様直進する 分岐の近くにはアジサイが咲いていた
 
 ルートはこれまでより道幅は狭くなり勾配もあるが長く続かない 途中分岐があるがどちらを進んでもその先で合流する 三の壇の碑を見て福山城跡広場に出る 西側に東屋があり その手前に三角点があった 東屋にはどなたもおられなかった 清音の市街地を一望し 反対側の東斜面へ向かう 広場には湊川決戦一週間前備中福山合戦*6)と記した説明と、国指定史跡「福山城跡」山頂案内図があるが そちらには寄らなかった
 
 東側斜面には猿田彦神社を示す案内があり丸太の階段の道が伸びている ここからも倉敷方面の景観が得られる 金甲山と思われる山並みを伺う事が出来る ルートを降りて行く ハナニガナが咲いていた 結構降りてゆく そして神社の裏手に出る ロープが設置されている急な石段を降りると観音像が幾つか設置された猿田彦神社の境内に出る 神社にお参りして 狛犬ならぬ狛猿を確認する そして神社を後にする
 
 今度は妙見展望台を目指す 前回歩いたルート 神社から平坦なルートを行くとすぐ分岐に出る ここを左に折れ登って行く 数分で妙見展望台を示す案内がある そこには幸福山の道との記載もあり幸山城跡へも行けるようだ ルートを行く 幾らか下り 途中分岐があるが妙見展望台への案内に従う シギランを見つけルートを行くと 妙見展望台に出る 展望台にはお一人休まれ食事休憩をされておられる様子 軽く挨拶を交わす
 
 展望台からは福山山頂展望台からと似た清音の街並みを俯瞰出来る 展望台から下に降りるルートがあるので そこを降りる 右手方向に進めば先の幸福山の道と合流するだろう 万一の場合は戻れば良いと降りて行く 左に向かう分岐があったがそこは避けルートを追って行く 狭いルートではあるが失う心配は無く追って行ける 記録を見ると2分程で少し広い道と合流 そして更に2分程降りたところで広いルートに出る
 
 ルート出口には幸福山の道と書いた案内標識が設置されており 狙っていたルートを降りて来れた事を確認出来た そこまでは良いが ここから右へ行くか 左へ行くか? 案内標識は左手から登ってきた人が認識し易い向きに設置されているので左手だと思うが 念の為右手へ向かってみる ルートは山を右にして巻いて登っているようなので、こちらでは無さそうだと判断し 反転して降りて行く
 
 5,6分降りて行くとT字路に出る T字路には福山を歩こうと書いた地図が設置されていたものの現在地の表示が無い 現在地がわからないのでは役に立たない でも 別の標識があり幸山城跡とか上の横道と書いた案内もあったので案内に従い幸山城跡へ向かう 以降も何か所か分岐があったがどこも幸山城跡を示す標識があった そして幸山城跡に出る
 
 城跡はちょっとした広場があり 幸山城址と書いた石碑と幸山城跡(山手村指定史跡)*7)と書いた案内板がある 広場の端からは清音方面の眺望が得られる 丁度良い岩があったのでそこにカメラを置いて記念写真を撮る(三脚を持参していなかった)
 
 そうそう ここで幸山城跡の文字起こしについて書いておこう 私が利用しているOCRソフトにこの説明板の画像を読ませたら OCR変換してくれなかった この案内板は白字で記載している 白黒変換してみようと 画像ソフトで白黒変換をかけると 白地に黒字の説明画像となった これをOCR変換したら バッチリ変換してくれた 参考になれば幸いである

 周辺の展望を一望し城跡を後にする 途中までルートを戻り 上の横道の案内に従いルートを行く 緩やかな登りである ここにこんな石がと思われるような大きな石があるところの脇を抜けたりする ところどころ左へ登る脇道のようなものがあるがそちらには行かずルートを行く 分岐から14分過ぎたところで直登コースと交差する
 
 交差するところにベンチがあり 直登コースの休憩所ともなっているようだ 福山を歩こうの地図も設置されており 現在地を示す指マークもあった 直登コースを横切って上の横道南コースを行く ここでコツクバネウツギに出合う 花に出合う事が少ない山道だったがスマートな花と出合え何よりだった 結構あちらこちらで咲いていた そして歴史広場へ向かう分岐に出る 
 
 分岐にはこの遊歩道はフツトパス(footpass)です*8)と書いた大きな標識が設置されており フットパスとは何か説明があった ネットで調べてみると イギリスで発祥した「歩くことを楽しむための道」であって、歩く権利を大切にした文化との説明があった 
 
 分岐の近くにはホタルブクロ ドクダミ ヘビイチゴ*(*は実を意味する) ジャノヒゲの花芽と思われる花が顔を見せてくれた そしてすぐに登りのルートと合流した
 
 登りのルートと合流し果樹園の前を抜ける 登りの時間はお休みだった花が開いているのを確認する 果樹園を過ぎて少し行くと 分岐がありいつも右に折れていたが 分岐に山道を経由して安養寺に出るという内容の記載があったので直進する 幅広のルートであったが ルート脇に縦走コース 安養寺→ と書いた標識があるので案内に従いルートに入る ぐんと狭くなり これが山道のようだ ルートを追って行く 展望が開け且つ右にカーブするところがある ルートを失わないよう標識を追って降りて行く 下ばかり見ていたのでどんな眺望が得られたか不明 結構細い道 果たしてどこに出るのか心配になる そしてお宮さんが見えてきて 八幡宮と書いた標識のところに出る
 
 どうやら安養寺の境内のようだ アジサイが咲いているのを見ながら歩いて行くと 右手奥に多宝塔が見え 左手に弁財天様と布袋様が設置されていた そこを降りて行くと天王池に出る 弁天堂を見て駐車場に戻る 車載温度26℃

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*1)中国自然歩道とは
 中国自然歩道は、中国5県を一周し、それぞれの地方に残された美しい自然のなかを歩いて、豊かな自然に親しみ、また、郷土の歴史や又化にふれて、私たちのふるさとを見直すための長距離自然歩道です。
 岡山県では、自然歩道を5つのルートに大別し、さらに各ルートを1日で楽しめるよう、合計43のコースに区分しています、

主な見どころ
●軽部神社(かるべじんじゃ)
 延宝六年(1678)建立。昔、境内に垂乳根の桜と呼ぱれる、枝垂れ桜があったことから、乳神様として庶民の信仰を集めた。安産や母乳の出を願うため手作りの絵馬が数多く奉納されており、女性達の信仰を集めている。
●福山城跡(ふくやまじょうせき)
 「太平記」に記された「福山合戦」の地として有名。室町幕府が開かれる少し前(1336年)、、京都の戦いで敗れた足利尊氏は九州に逃れ、再び都を目指し、瀬戸内海と山陽道にわかれて攻めのぽった。このとき、後醍醐天皇方の新田義貞軍の武将・大井田氏経は福山を占拠し、その東上を阻むためにこの城へ立てこもった。
●安養寺(あんようじ)
 安養寺は平安時代より、朝原寺は更に古く、徐福渡来の蓬来山、七福神の里とLて、祈りを現代に受け継いでいる、弘法大師空海修行の地、栄西国師出家の地として、また全国十選の花の寺、倉敷探鳥会発祥の地など、自然を愛好する人々の安らぎの場ともなっている
 

*2)浅原郷土自然保護地域

この地域は、郷土のすぐれた自然を保護するため、岡山県自然保護条例に基づき指定された地域です。
1 位置 倉敷市浅原
2 面積 5.22ha
3 指定年月日 昭和48年(1973年)11月29日
4 特徴
 安養寺を中心とするこの地一帯は、平安時代には大小数十の寺院が霊地を形づくり、中国地方の仏教の聖地として栄えたと伝えられ、また、国指定重要文化財である毘沙門天立像や吉祥天立像、県指定史跡である経塚など、多くの歴史遺産が残されています。
 周囲を取り巻く山林は、アカマツを主体として、アラカシ、ソヨゴ、ヒサカキなどの常緑広葉樹を混じえた植物層が、都市近郊に残された価値ある自然環境を形成しています。
5 行為の制限
 土地の形質変更、土砂の採取、木竹の伐採、工作物の設置等を行うときは、あらかじめ届出が必要です。
責重な自然の保護にご協力をお願いします。
岡山県
 

*3)福山ハイキングコース

所要時間 山頂まで約1時間
     山頂より幸山城跡往復釣1時間半

 福山は、倉敷周辺では一番高い山で、古戟場として有名、遠い昔をしのびながら家族連れハイキングきするには最適な山です。山頂より小鳥の嘲りを聞き、樹林帯の中を下って行くと、幸山城に着きます。
 幸山城跡より眺める吉備路の展望はすばらしく、往時の城を空想してみるのもヌ楽しいではありませんか。
 福山山頂からは、晴れていれば遠く四国山脈を、又吉備平野から中国山脈に連なる山並みも美しく眺めることができます。山頂直下の猿田彦神社には古井戸があり、冷めたい井戸水を飲むこともてきます。一日中のんびりとしたハイキングき楽しんでみて下さい。
倉敷市
 

*4)朝原山安養寺

 安養寺の創建は奈良時代 仙人 救世の行者と賛される高僧報恩大師(−795)国家祈願の寺として開山 朝原千坊の中院として存在し 13世紀には現在の浅原の谷一帯に朝原寺と総称される寺院が建ちならんでいたと思われる 安養寺裏山経塚出土の応徳3年(1086)の瓦経願文に「安養寺」の文字が刻まれている また 13世紀に書かれた「源平盛衰記」に 鹿が谷の変で治承元年(1177)、備前に流された大納言藤原成親が 備中国安養寺に調御坊という僧を請して備中国朝原寺にて出家受戒したとある
 安養寺は、享保2年(1717)以前には、現在地より二町(約220m)あまり南にあり、池田家文庫などから、客殿・庫裏を備えた 朝原寺一山の本坊であったことがわかっている。
 

*5)安養寺裏山経塚群

平安時代末期に流行した末法思想のより正しい経典を後世に残そうと、経文を地中に埋納する風習が行われた。ここは、このように経文を埋納した経塚群として知られている。調査された経塚は三基あるが、一基は経筒に納めて石組みの室に埋納したもので、他の二つは板瓦に経文を刻みこんで埋納した「瓦経塚(がきょうづか)」とよばれるものである。

第一経塚は昭和十二年(1937)に、第二経塚は昭和三十三年(1958)五月に、第三経塚は同年六月に発見され、第三経塚は同年十二月正式発掘調査された。

第三経塚から発見された経瓦の願文の中に「應徳三年春二月於安養寺」と記されているが、この年号は、西暦1086年にあたり、この経塚の年代を知る貴重な資料となっている。

なお、第一経塚から出土した一括遺物は、国指定重要文化財となっている。
倉敷市教育委員
 

*6)湊川決戦一週間前備中福山合戦

海抜302mのこの福山は往古 神奈備(カンナビ)山、加佐米山、百射(ヒモイ)山とか言われたが、山岳佛教が栄えた奈良平安期 報恩大師が頂上に福山寺及び十二坊を建て伽藍(ガラン)が全山に並び繁栄を極め福山と呼ばれるようになった。

後醍醐天皇念願の親政が復活したが建武中興に加わった足利尊氏が論功行賞に〇〇(フンマン)を抱き天皇支持勢力の新田義貞、楠木正成等と対立した。この結果、尊氏勢が九州へ敗走し軍勢を立て直して再び京都を目指して東上を開始した。福山合戦はその途上の延元元年五月におこった。

足利直義十六日 朝原峠より攻撃を開始したが、城兵撃退す、十七日四方より総攻撃をかけ、城兵は石火矢、岩石落し、弓矢にて二万餘の死傷者を出したが 新手入り変り立ち変り遂に乱入され火をかけられ落城となった。大井田氏経一千騎引連れ山下の直義の本陣になぐり込み奮戦したが、味方は百騎程になり山上は火の海、氏経はこれ迄と部下を集め三石の本陣に加わらんと一方切り破り逃れた 福山城落城後直義は敗走する氏経を追い板倉より辛川まで十余度交戦を続け三石城へ逃れ去った。

直義は足利勢をここで休養させ首実験をして戦功を賞した。討首千三百五十三を数えたという。
 

*7)幸山城跡(山手村指定史跡)

 幸山城は別名を甲山城または高山城ともいう。福山の北登山道の中腹から別れた山塊(標高162m)に立地している。頂上からの展望は、東西ともに旧山陽道を一望におさめる要害である。鎌倉期の後半頃庄資房によって築城されたといわれる。その後、応永年間に石川氏の居城となった。細川氏の被官であり、また、吉備津神社の社務代である石川氏は備中南部ての有力な武将であった。永禄十年(1567)の明禅寺合戦で石川久智は戦死した。その子久式の時、毛利氏と松山城主三村元親との戦乱にあたり、久式は義兄の元親を救援するため松山に出陣したが利あらず逃れて幸山城下に帰り自刀した。時に天正三年(1575)であった。かくして、毛利氏の領国支配のもとて清水宗治等が一時居城し、廃城となった。
 この城の縄張りは、東の曲輪と西の曲輪とに別れている。福山の北西の中腹から大きな堀切を下りて急峻な斜面を登ると巨石がある。その巨石の所から東の曲輪の平担部が開けている。三ケ月形の地形で南側が約四十m、東側が約五十m、北側は次第に傾斜して西曲輪との間の大きな堀切に続いている。南側と東側には土塁状の高まりがあり、場所によっては高さ二mもある所がある。西の曲輪との間の堀切は巾三十m深さ四mの大きなものてある。西の曲輪は東西四十mx南北三十mの不整形な楕円状である。巨石が数個露呈している。南の端に低い土塁遺構が残っている。
平咸6年3月 
山手村教育委員会
山手村文化財保護委員会
 

*8)この遊歩道はフツトパス(footpass)です

フットパスとは、私有地を一般の人が歩けるように開放された歩道の事です。
 山歩きを楽しむ人のために、歩道を利用させていただいています。歩道を利用する者として、感謝の気持ちを持ちマナーを守って迷惑にならないようにしましょう。
1)道から出ない(山や畑等に入らない)
2)盗らない
3)壊さない
4)捨てない
土地所有者の善意と、利用する者のマナーが信頼となって成立するフットパスです。このマナーが守れない場合は歩道が利用できなくなります。
永遠に利用できるといいですね。


アプローチ
 この所降水確率の高い日が続く 曇りの予報ではあるが降水確率は10%となり、雨の心配は無さそうなので出かける 当初の予定は花見山 ニッコウキスゲが見頃だろう 薄っすらと明るみかけた頃倉敷を出発 車載温度19℃ いつものように高梁川に沿って 180を行く 豪渓泰橋16℃ 井倉16℃ 新見17℃ と走って行く 千屋に近づくと車のフロントに露が と思ったら小糠雨 降水確率は10%の予報なのですぐ止むだろうと千屋で県道111に入り花見山ゲレンデへ向かう 花見山ゲレンデに向かう広い道で土砂崩れがあったようで工事中 迂回路が設置されておりそこを抜けてゲレンデに着く 小糠雨の状況に変化は無い ゲレンデは雨滴でしっとり この様子ではゲレンデに入ったら雨滴で濡れてしまうだろう 登山道も草木が繁っているとずぶ濡れになってしまう 折角だがまたにしようと来た道を戻る ちなみにゲレンデでの車載温度は13℃

 180号を倉敷に向かう もう雨は止んだ 折角早起きしてここまで来たのでどこか寄れるところが無いか考える 5月に福山を訪ねた事を思い出す 手元に地図は無いが 大分山の様子を知る事が出来た 確かめたい事もあったので福山に寄る事にする
 
 前回福山を訪ねた時に県道469を知った 総社方面と繋がっていると思うが、確認出来ていない 川辺橋を過ぎた三叉路を左折し適当に走っていったら県道469にぶつかった これ幸いと右折し 安養寺の案内標識に従い 駐車場へ 駐車場は10台以上すでに駐車していた 車載温度は記録を忘れた