駐駐車場(下横道南)7:21−7:25分岐−7:41分岐−7:51分岐−8:00福山8:11−8:16猿田彦神社−8:18分岐−8:21分岐−8:27妙見展望台−8:34八畳岩最初の岩−78:43八畳岩一番石仏−8:46分岐(西郡コース)−8:50分岐(幸山コース)ー8:54お大師様−9:02分岐−9:08分岐9:14−9:16分岐A=9:19天神社=9:23古墳=9:28分岐A−9:39分岐(直登コース)−9:42直登コース入口−9:44県道=9:45歴史広場=9:48県道−9:52駐車場
今日は福山(ふくやま 標高302m)を訪ねる登山支度もする 少し寒く感じるのでウインドウブレーカーも着用して出発する 駐車場の出口(登山口へ向かう方)に幸福の小径と書いた遊歩道マップと福山を歩こうと書いた案内地図が設置されている 地図で駐車場の位置が判明した
県道を横断して下の横道南コースを行く 平坦なルート数分歩くと東屋があり分岐に福山山頂へとの記載がある 駐車場に設置されていた福山を歩こうの縮小版が設置されているが色が褪せて判読しにくい 直登ルートを登る予定でいたが、ルートの先に階段が見えたのでここと勘違いして右に折れる 予想していた階段は短く ルートは右手方向に緩やかに登って行く あ!これは間違ったなと気付いたものの、このルートは歩くのは初めてだし まあいいかとそのまま進む ゆっくり回り道コースである事が後でわかった
ルートを行くとこの遊歩道はフツトパス(footpass)です*1)と書いた大きな板があるところに出る 上の横道コースでこれまでに歩いた所である 浅原コースを行く方が楽で早いと思うが直登コースを行きそこねたので 左に折れ上の横道コースを行き、直登コースに入る事とした ルートではソヨゴ*(*は実を意味する)を見つけたが花や実は少ない上の横道コースを10分程歩くと直登コースに出る ここから丸太の階段を登って行く すれ違う方が結構おられる 追い抜いて行かれる方も 途中大きな岩がありそれを避けて少しルートがずれるがまさに直登でまっすぐ登って行く ウメモドキ*と思われる赤い実を見つけたがすでに葉は落ちていた 登っていて気づいたのだが数字を書いた小さなプラスチックボードが階段の木に取り付けてある 1200とある どうやら段数だ 1234段あると知られている
そして山頂に出る ここから山頂に出るのは初めてだ 東屋がある いつもどなたか居られたが今日はどなたもいない ベンチにリュックを降ろし記念写真を撮る 温度計が設置されている 見ると-2℃を示していた ここにはまだ陽射しは得られない
三角点のすぐそばにサザンカがピンクの花を沢山咲かせていた 湊川決戦一週間前備中福山合戦*2) 国指定史跡「福山城跡」山頂案内図を見て南側の斜面に向かい 猿田彦神社へ向かう 南の斜面は陽射しを受け眩いほど 斜面を少し下がったところにベンチがあり日向となっている そこで店を広げているグループが見られた
丸太の階段を降りて行く こちらの階段は何故か白く霜がついており 滑り易い 丸太を踏まないよう留意しながら降りる 猿田彦神社の三十六番の石仏を見る 神社にお参りして 狛犬ならぬ狛猿を確認して神社を後にする
今度は妙見展望台を目指す 以前にも歩いたルート 最初の分岐を左に折れ 福山山頂へ向かうルートを少し登り 妙見展望台を示す案内に従って右に入って行く 途中分岐が幾つかあるが道なり(標識があるところもある)にルートを行くと東屋が見えてくる
ここからも山頂同様清音の市街地を展望出来る 東屋に男性がおられ何か見ておられる 温度表示付きの時計だ-1℃を示していた 男性は急に冷えてきましたねと挨拶を交わす 青空が広がっているもののきらきらしたものが舞っている 風に吹かれた雪のようだ
妙見展望台で景観を一望しルートを降りて行く 展望台を少し下ったところに分岐がある いつもは右手の緩やかな斜度のルートを降りているが左のルートはどこに出るのだろうか うまく行くと八畳岩に出るかも知れぬとルートを降りて行く しっかりしたルートではあるが狭く 傾斜も結構厳しい ロープを設置しているところもある 足元に留意しながら降りて行く
案の定大きな岩の所に出た 岩を回り込むようなルートもあるのでそちらに寄ってみたりしながらルートを降りて行く 大きな岩の間を抜けて行く 目前に大きな岩が現れる 近距離なのでカメラに収まらない パノラマ合成を狙って撮る 岩の上に立って清音の市街地を展望出来るような所もある 幾つもの岩があるのでどのような位置関係かもうわからない 今度は岩の隙間を潜り抜ける 抜けた所にも展望が得られる岩面がある 更に降りて行く ロープが設置された斜面 ロープを使わないと危ない しっかりロープを掴み 山に顔を向けて後向きで降りて行く 右手に大きな岩を見ながら降りて行き 広場に出る
広場には東屋があり 大きな岩の面に石仏が彫られている 私が降りてきたところ(広場から見て右端)に一番と書いたかなり大きな石仏が彫られている その反対の左には二番の石仏が彫られておりサイズは大分小さくなっている 三番から五番は更に小さな石像として並んでいる 前回の登山日記に下記の記載がある その一番から五番の石仏だと理解した
ネットで調べると猿田彦神社三十三観音と書いたサイトに”猿田彦神社から、北方にある「八畳岩」と呼ばれる巨岩にかけて、西国三十三観音が祀られている”との説明があった 八畳岩には寄らなかったがルートで六番まで確認出来た どうやら石仏が彫られている岩が八畳岩のようだ
八畳岩を後にルートを行くとすぐ西郡コースに出る ここは歩いた事があるルート 少し行くとT字路に出る ここを上の横道へ向けて左折する すぐにまた分岐がある 今日は古墳群を見学する予定で次ぎの分岐を幸山城跡の方へとり、幸山コースを行く 城跡には寄らずルートを降りて行く しばらく降りた左手に社がある 案内図を見るとお大師様のようだ
やがてルートは舗装道路に出る 出る位置に歴史広場に向かうルートの説明があり それを読んで所定のルートを行く 今度の分岐には下の横道(直進)と天神社(左)とある 天神社は寄り道だと思い、直進する ルートは市街地になり怪しい たまたま家から出て来られた男性の方にお尋ねすると こちらでは無い 戻ったところに標識があるからそこを行くのだと伺う
標識というのが先ほどのもの どうやら天神社の方へ行くのだと判断しそちらへ向かう そこを行くとすぐに分岐がありそこには地図があり状況を判断する事が出来た 左に天神社 天神古墳群とあるのでそちらに寄る ルートを行くと左手に東屋がありその先に相撲場と天神社がある 一瞥し反対側に設置されている案内図を見る 駐車場にあった幸福の小径の案内図と三因古墳群等所在地*3)と書いた説明板が設置されていた どれだけの古墳群があるのか図示されていないのでどこを行けばよいか判断出来なかったが適当にルートを行く 古墳と書いたものが見られたのでこうしたものなのかと深く追及せずにルートを戻る
先ほどの分岐に戻り浅原峠を目指す このルートは下の横道北コースのようだ 平坦なルートで10分程で直登ルートと交差する 階段が続いている 今日登る予定はここだったのだ また別の機会にしよう
少し前を歩いていた3人グループの人がここを降りたら道路に出る そこから山頂まで1234段ある 私達はここから登が君は下まで行き全部登ってきな と言う説明をされていた なるほどと伺う 私はそこを降りて歴史広場へ向かう
階段を降りたところに東屋がありそこから階段が始まっている その先は舗装道路となっている 道路を行き県道を横断したところに歴史広場がある 右手に古墳が3つ程見られる そこが歴史広場のようだ 広場を取り巻くように自動車道があり盲腸のようになって、左手に何台もの車が駐車している 歴史広場には人がいる様子は見られないので登山者の車だと思う バックして入って来る車が見られた 少し降りた位置が広場の入口になっており歴史広場*4)と書いた説明板がある
歴史広場は入って行ける 古墳の前には古墳の説明がある1号墳*5)と3号墳*6)の説明を書いておこう 広場にはマユミの木が一本まだ若いが見事なピンク色の実を沢山つけていた
歴史広場を後に県道を登り駐車場へ 車載温度3℃だった−−−−−−−−−−−−−−−−以下は標識に記載してあったもの−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
*1)この遊歩道はフツトパス(footpass)ですフットパスとは、私有地を一般の人が歩けるように開放された歩道の事です。
山歩きを楽しむ人のために、歩道を利用させていただいています。歩道を利用する者として、感謝の気持ちを持ちマナーを守って迷惑にならないようにしましょう。
1)道から出ない(山や畑等に入らない)
2)盗らない
3)壊さない
4)捨てない
土地所有者の善意と、利用する者のマナーが信頼となって成立するフットパスです。このマナーが守れない場合は歩道が利用できなくなります。
永遠に利用できるといいですね。
*2)湊川決戦一週間前備中福山合戦
海抜302mのこの福山は往古 神奈備(カンナビ)山、加佐米山、百射(ヒモイ)山とか言われたが、山岳佛教が栄えた奈良平安期 報恩大師が頂上に福山寺及び十二坊を建て伽藍(ガラン)が全山に並び繁栄を極め福山と呼ばれるようになった。
後醍醐天皇念願の親政が復活したが建武中興に加わった足利尊氏が論功行賞に〇〇(フンマン)を抱き天皇支持勢力の新田義貞、楠木正成等と対立した。この結果、尊氏勢が九州へ敗走し軍勢を立て直して再び京都を目指して東上を開始した。福山合戦はその途上の延元元年五月におこった。
足利直義十六日 朝原峠より攻撃を開始したが、城兵撃退す、十七日四方より総攻撃をかけ、城兵は石火矢、岩石落し、弓矢にて二万餘の死傷者を出したが 新手入り変り立ち変り遂に乱入され火をかけられ落城となった。大井田氏経一千騎引連れ山下の直義の本陣になぐり込み奮戦したが、味方は百騎程になり山上は火の海、氏経はこれ迄と部下を集め三石の本陣に加わらんと一方切り破り逃れた 福山城落城後直義は敗走する氏経を追い板倉より辛川まで十余度交戦を続け三石城へ逃れ去った。
直義は足利勢をここで休養させ首実験をして戦功を賞した。討首千三百五十三を数えたという。
*3)三因古墳群等所在地
6世紀後半から7世紀中頃の吉備には、製塩や漁業を営む瀬戸内の島々にも、美作の山間地にも、多数の小古墳がつくられました。
こうした小古墳の誕生はしだいに生産を伸ばした民衆が、財力を貯え、有力な家父長を中心とする家族集団を形成したことのあらわれです。
南部の高梁川以東では、200基ちかくの円墳からなるこの清音・三因千塚が、典型かつ代表的な群集墳の一つとして、よく知られています。
*4)歴史広場 三因(みより)・峠(とうげ)古墳群(こふんぐん)
6世紀後半から7世紀中頃の吉備には、製塩や漁業を営む瀬戸内の島々にも、美作の山間地にも、多数の小古墳がつくられました。
南部の高梁川以東では、200基ちかくの円墳からなるこの清音・三因千塚が、典型かつ代表的な群集墳の一つとして、よく知られています。その南半の67基からなる支郡をとくに峠古墳群と称し、このたび西へ平行移動させたこの4基の古墳も含まれていました。
こうした小古墳の誕生はしだいに生産を伸ばした民衆が、財力を貯え、有力な家父長を中心とする家族集団を形成したことのあらわれです。ちょうどそのころ、大王権を確立しつつあった大和を中心とする政治勢力は、これら家父長層を直接従えようとして、首長だけでなく彼らにも小古墳の築造を認めはじめたのです。
平成6年9月 清音教育委員会
*5)市指定史跡 峠1・2・3号墳(歴史広場)
三因・峠1号墳
この古墳は、直径約11mの円墳です。棺を置く部屋と、その部屋へ出入りするための開口部を取り付けた横穴式石室という埋葬施設を採用しています。開口部を開け閉めすることで、死者を何度でも埋葬することができます。石室の全長は7.34m、高さは1.55m、奥壁の幅は1.21mで、床面には丸い石が敷かれていました。
この横穴式石室を埋め込むように、石や土で盛り上げられた墳丘が築かれています。とくに石を多用しています。また、墳丘のまわりには、幅lmあまりの堀がめぐっています。
この古墳が築かれたのは、7世紀前半ごろと考えられます。
平成27年3月 総社市教育委員会
*6)市指定史跡 峠1・2・3号墳(歴史広場)
三因・峠3号墳(第1石室)
この古墳は、一見、多角形に見える墳丘を築いているようでしたか、多角形墳か円墳かは明らかになりませんでした。墳丘の端や堀も角ばっているようですが、各辺の長さは異なっていました。墳丘の大きさは約10mで、1号墳、2号墳とほとんど変わりません。また、墳丘を盛るために、人頭大か、それよりも大きな石をたくさん使用し、表面だけを土砂で整えていることも共通しています。
横穴式石室は、全長5.55m、高さ1.46m、奥壁付近の幅1.20mで、
床面には角ばった石が敷かれていました。また、開口部をふさいだ石も残されていました。
この古墳が築かれたのは、6世紀後半ごろと考えられます。
平成27年3月 総社市教育委員会
いつもと違うルートを登ってみようと計画 歴史広場付近の駐車場から登る事とした 朝日の出るのは大分遅くなってきた 幾らか明るくなるのを待って倉敷を出発 車載温度0℃ 429に向けて走る 浜ノ茶屋北の交差点で429にのりすぐ次の交差点で県道469へ左折する 前方に見えてくる山が福山 安養寺を示す案内表示を見送り ピークを超える 左手に駐車場が見えたのでそこに入る すでに多くの車が駐車していた 道路を越えた所に山に向かう道路があるのを見て、ここに駐車すれば良いだろうと判断する 車載温度1℃(ひょっとしたらマイナスを見逃していたかも知れない)