福山



標高 302m    難易度 ☆     登り36分 下り30分  猿田彦神社八畳岩等周遊57分   岡山県
倉敷からの距離   7Km        登頂日 2022/12/15   ガイドブック F写真 動画

駐車場所7:42−8:03分岐A−8:18福山山頂8:19−8:24猿田彦神社−8:26分岐−8:29分岐−8:35妙見展望台−8:41八畳岩最初の岩ー8:43写真8:50ー8:54八畳岩一番石仏−8:56分岐(西郡コース)−8:58分岐(上の横道)−9:09標識19−9:16分岐−9:20分岐(西郡コース)−9:23山頂広場−9:35分岐A−9:50安養寺−9:53駐車場

登山
 今日は福山(ふくやま 標高302m)を訪ねる

 登山支度をして出発する そう寒く感じないのでウインドウブレーカーはリュックに入れる 駐車場にはサクラが数輪咲いていた 中国自然歩道とは*1) 浅原郷土自然保護地域*2) 福山ハイキングコース*3)の案内板をさっと見て 大毘沙門天王が鎮座している鳥居を潜り安養寺境内に出る 朝原山安養寺4*)の説明があるのを確認し 多宝塔を右に 宝物殿を左に見てルートを行く 多宝塔に並ぶようにして白い花 樹にゴードニア(中国椿)と記載があった 福山城跡の案内に従い坂道を登る 坂の左手に東屋があり観音厄除坂を登ってゆく 右手石垣には観音様が幾つも埋め込まれている 坂を登った右手に羅教堂がある 正面に回り込むと十六羅漢像を見る事が出来る ルート左にはサザンカが咲いていた
 
 少し行くと分岐があり経塚群がある山道コースを行く 少し登った地点に安養寺裏山経塚群*5)と書いた説明板があり 発掘された場所を示す標識があった また霊魂不滅と書いた石像のある墓地を見ながらルートを行くと広い道に出る 道なりに登って行くと前方が明るくなり果樹園が見え、福山山頂が見える

 この時期草花は期待できないと思っていたがナズナ ホトケノザが咲いていた ムラサキカタバミと思われる花も見られたが元気はなかった 更にギンモクセイ ナンテン*(*は実を意味する) ビワも顔を見せてくれた
 
 果樹園を過ぎるとまもなく福山を歩こうと書いた案内図がある分岐(便宜上分岐Aとする)に出る 上の横道コースに繋がる分岐 今日はそちらに行かず直進し福山を目指す
 
 ルートはこれまでより道幅は狭くなり勾配もある 土の感触を楽しみながら登って行く 三の壇の碑を見て福山城跡広場に出る 西側に東屋があり その手前に三角点がある その近くにピンク色をしたサザンカが咲いていた 東屋に設置されている温度計を見ると1℃だった 
 
 ここからは清音の市街地を一望出来る 曇り空で県北の山々は確認出来なかった 反対側の東斜面へ向かう 東側斜面からは倉敷方面の景観が得られる 金甲山や小豆島を伺う事が出来る 丁度その部分だけ雲がなく明るい光が注がれていた
 
 猿田彦神社を示す案内があり丸太の階段の道が伸びている 足元に注意しながら降りて行く 結構下る そして神社の裏手に出る 急な石段を降りると猿田彦神社の境内に出る 境内には朽ちた休憩所?や石の灯篭 石仏がある 石仏には三十六番と記されていた 神社にお参りして 狛犬ならぬ狛猿を確認する そして神社を後にする
 
 今度は妙見展望台を目指す 最初の分岐を左に折れ 福山山頂へ向かうルートを少し登り 妙見展望台を示す案内に従って右に入って行く おや!黒い実を見つけた ネズミモチ*だ ネズミモチ*を見つけるのは久々だ 途中分岐が幾つかあるが道なりにルートを行くと東屋が見えてくる その手前にソヨゴの木がある近づいて良く見ると赤い実を見つける事が出来た
 
 ここからも山頂同様清音の市街地を展望出来る ここにも温度表示付きの時計があり1.3℃を示していた 
 
 妙見展望台で景観を一望しルートを降りて行く 展望台を少し下ったところに分岐がある 分岐を左にとり八畳岩を目指す ルートは狭く、傾斜もきついがしっかりしたルートである ロープを設置しているところもある 足元に留意しながら降りて行くと三重の塔を乗せた大きな岩に出る 岩を左に見て回り込むようにして降りる 高さは数メートルだが急な岩の斜面がありロープが設置されている ロープを掴み後ろ向きに降りて行く 降りるとすぐ岩の下を潜って行くところに出る 今日はここで記念写真を撮る カメラを設置していたらヒサカキ*の実を見つけた
 
 記念写真を撮り 休んだついでに麦茶で喉を潤し出発する 岩の下を潜り抜けると八畳岩の岩の頂上に出る 岩を右に見てその脇を降りて行くと広場に出る
 
 広場には東屋があり 大きな岩の面に石仏が彫られている 私が降りてきたところ(広場から見て右端)に一番と書いたかなり大きな石仏が彫られている その反対の左には二番の石仏が彫られておりサイズは大分小さくなっている 三番から五番は更に小さな石像として並んでいる 前にも記したが ”猿田彦神社から、北方にある「八畳岩」と呼ばれる巨岩にかけて、西国三十三観音が祀られている”との事
 http://kazesasou.com/hotoke_ka/okayama/soujya/_010_soujya_sarutahikojinjya33.html
 
 八畳岩を後にルートを行くとすぐ西郡コースに出る 分岐にネズ*を見つけた ルートを降りて行く 少し行くとT字路に出る ここを上の横道へ向けて左折する すぐにまた分岐がある ここも上の横道コースへ直進する 結構登りがあるルート 今日はこのルートの脇道を探索して見る事に 登るルートであればどこに飛び出しても位置の判断は出来る 左手山側に脇道がないか留意していると 大きな岩を過ぎた地点に脇道が見つかった 少し高い所だが木の枝に19と書いた板が設置されている 番号がついているのはしっかりしたルートだろう ここへ入って行く
 
 登りが続く そうきつくない ヤブコウジ*がいくつか実をつけているのを見つける 少し先に登って行かれる方が見られたので安心して登って行く ルートは左にカーブする これだと妙見展望台の方に出るかも知れない 妙見展望台の近くに23と書いたルートを入った記憶がある それに繋がっているかも知れないと考えながら行くと 案の定分岐がある 何の案内もないが直進すれば妙見展望台 右へ登ってゆけば福山山頂に出ると判断 右へ登って行く 前を行かれた方は直進されていた そして登って行くと判断したとおり幅広のルートに出る 出たところに竹で作ったベンチがあり西郡コースに出る 前に歩いたルートだ 前回の記録に 出口の木の枝に19と書いた板があった と書いているが見付からなかった(撮った写真を良く見たら笹の葉に隠れるようにしている19と書いた新しい標識があった)
 
 少し行くと福山山頂広場に出る 広場には湊川決戦一週間前備中福山合戦*6)と記した説明と、国指定史跡「福山城跡」山頂案内図がある 案内図の脇を抜けると登ってきた時のルートに出る そして登ってきたルートを降りて行く 果樹園を過ぎて少し行くと分岐がある ここで登ってきたルートとは別の山道を経由して安養寺に出るルートへ直進する
 
 縦走コース 安養寺→ と書いた標識に従いルートに入る ルート幅がぐんと狭くなり山道を楽しむ雰囲気となる ルートを追って行く 展望が開けたところで右にカーブする ルートを追って降りて行く やがてお宮さんが見えてきて 八幡宮と書いた標識のところに出る 安養寺の境内だ 境内では弁財天 布袋尊 大黒天神 恵比須天などを見る事が出来る 自動車道を降りて行くと天王池に出る 弁天堂を見て駐車場に戻る 駐車場は随分増えていた 車載温度7℃だった

−−−−−−−−−−−−−−−−以下は標識に記載してあったもの−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
*1)中国自然歩道とは
 中国自然歩道は、中国5県を一周し、それぞれの地方に残された美しい自然のなかを歩いて、豊かな自然に親しみ、また、郷土の歴史や又化にふれて、私たちのふるさとを見直すための長距離自然歩道です。
 岡山県では、自然歩道を5つのルートに大別し、さらに各ルートを1日で楽しめるよう、合計43のコースに区分しています、

主な見どころ
●軽部神社(かるべじんじゃ)
 延宝六年(1678)建立。昔、境内に垂乳根の桜と呼ぱれる、枝垂れ桜があったことから、乳神様として庶民の信仰を集めた。安産や母乳の出を願うため手作りの絵馬が数多く奉納されており、女性達の信仰を集めている。
●福山城跡(ふくやまじょうせき)
 「太平記」に記された「福山合戦」の地として有名。室町幕府が開かれる少し前(1336年)、、京都の戦いで敗れた足利尊氏は九州に逃れ、再び都を目指し、瀬戸内海と山陽道にわかれて攻めのぽった。このとき、後醍醐天皇方の新田義貞軍の武将・大井田氏経は福山を占拠し、その東上を阻むためにこの城へ立てこもった。
●安養寺(あんようじ)
 安養寺は平安時代より、朝原寺は更に古く、徐福渡来の蓬来山、七福神の里とLて、祈りを現代に受け継いでいる、弘法大師空海修行の地、栄西国師出家の地として、また全国十選の花の寺、倉敷探鳥会発祥の地など、自然を愛好する人々の安らぎの場ともなっている
 

*2)浅原郷土自然保護地域

この地域は、郷土のすぐれた自然を保護するため、岡山県自然保護条例に基づき指定された地域です。
1 位置 倉敷市浅原
2 面積 5.22ha
3 指定年月日 昭和48年(1973年)11月29日
4 特徴
 安養寺を中心とするこの地一帯は、平安時代には大小数十の寺院が霊地を形づくり、中国地方の仏教の聖地として栄えたと伝えられ、また、国指定重要文化財である毘沙門天立像や吉祥天立像、県指定史跡である経塚など、多くの歴史遺産が残されています。
 周囲を取り巻く山林は、アカマツを主体として、アラカシ、ソヨゴ、ヒサカキなどの常緑広葉樹を混じえた植物層が、都市近郊に残された価値ある自然環境を形成しています。
5 行為の制限
 土地の形質変更、土砂の採取、木竹の伐採、工作物の設置等を行うときは、あらかじめ届出が必要です。
責重な自然の保護にご協力をお願いします。
岡山県
 

*3)福山ハイキングコース

所要時間 山頂まで約1時間
     山頂より幸山城跡往復釣1時間半

 福山は、倉敷周辺では一番高い山で、古戟場として有名、遠い昔をしのびながら家族連れハイキングきするには最適な山です。山頂より小鳥の嘲りを聞き、樹林帯の中を下って行くと、幸山城に着きます。
 幸山城跡より眺める吉備路の展望はすばらしく、往時の城を空想してみるのもヌ楽しいではありませんか。
 福山山頂からは、晴れていれば遠く四国山脈を、又吉備平野から中国山脈に連なる山並みも美しく眺めることができます。山頂直下の猿田彦神社には古井戸があり、冷めたい井戸水を飲むこともてきます。一日中のんびりとしたハイキングき楽しんでみて下さい。
倉敷市
 

*4)朝原山安養寺

 安養寺の創建は奈良時代 仙人 救世の行者と賛される高僧報恩大師(−795)国家祈願の寺として開山 朝原千坊の中院として存在し 13世紀には現在の浅原の谷一帯に朝原寺と総称される寺院が建ちならんでいたと思われる 安養寺裏山経塚出土の応徳3年(1086)の瓦経願文に「安養寺」の文字が刻まれている また 13世紀に書かれた「源平盛衰記」に 鹿が谷の変で治承元年(1177)、備前に流された大納言藤原成親が 備中国安養寺に調御坊という僧を請して備中国朝原寺にて出家受戒したとある
 安養寺は、享保2年(1717)以前には、現在地より二町(約220m)あまり南にあり、池田家文庫などから、客殿・庫裏を備えた 朝原寺一山の本坊であったことがわかっている。
 

*5)安養寺裏山経塚群

平安時代末期に流行した末法思想のより正しい経典を後世に残そうと、経文を地中に埋納する風習が行われた。ここは、このように経文を埋納した経塚群として知られている。調査された経塚は三基あるが、一基は経筒に納めて石組みの室に埋納したもので、他の二つは板瓦に経文を刻みこんで埋納した「瓦経塚(がきょうづか)」とよばれるものである。

第一経塚は昭和十二年(1937)に、第二経塚は昭和三十三年(1958)五月に、第三経塚は同年六月に発見され、第三経塚は同年十二月正式発掘調査された。

第三経塚から発見された経瓦の願文の中に「應徳三年春二月於安養寺」と記されているが、この年号は、西暦1086年にあたり、この経塚の年代を知る貴重な資料となっている。

なお、第一経塚から出土した一括遺物は、国指定重要文化財となっている。
倉敷市教育委員
 

*6)湊川決戦一週間前備中福山合戦

海抜302mのこの福山は往古 神奈備(カンナビ)山、加佐米山、百射(ヒモイ)山とか言われたが、山岳佛教が栄えた奈良平安期 報恩大師が頂上に福山寺及び十二坊を建て伽藍(ガラン)が全山に並び繁栄を極め福山と呼ばれるようになった。

後醍醐天皇念願の親政が復活したが建武中興に加わった足利尊氏が論功行賞に〇〇(フンマン)を抱き天皇支持勢力の新田義貞、楠木正成等と対立した。この結果、尊氏勢が九州へ敗走し軍勢を立て直して再び京都を目指して東上を開始した。福山合戦はその途上の延元元年五月におこった。

足利直義十六日 朝原峠より攻撃を開始したが、城兵撃退す、十七日四方より総攻撃をかけ、城兵は石火矢、岩石落し、弓矢にて二万餘の死傷者を出したが 新手入り変り立ち変り遂に乱入され火をかけられ落城となった。大井田氏経一千騎引連れ山下の直義の本陣になぐり込み奮戦したが、味方は百騎程になり山上は火の海、氏経はこれ迄と部下を集め三石の本陣に加わらんと一方切り破り逃れた 福山城落城後直義は敗走する氏経を追い板倉より辛川まで十余度交戦を続け三石城へ逃れ去った。

直義は足利勢をここで休養させ首実験をして戦功を賞した。討首千三百五十三を数えたという。


アプローチ
 成羽天神山を狙ったのだが県道30に入ってから雪が降りだし、急遽変更したので総社の方から登山口に向かった ここでは倉敷から安養寺に向かった事として書いておく
 
 429に向けて走る 浜ノ茶屋北の交差点で429にのりすぐ次の交差点で県道469へ左折する 前方に見えてくる山が福山 信号機のある交差点を過ぎて登りとなって間もなく安養寺を示す案内があるのでそれに従って右折 対向車に留意してくだって行き安養寺の駐車場に すでに駐車している車が数台あった 車載温度3℃