龍王山



標高 287m    難易度 ☆     登り28分 山頂−最上稲荷45分 最上稲荷−駐車場59分   岡山県
倉敷からの距離    23Km        登頂日 2024/02/17   ガイドブック    F   写真 動画

駐車場=太閤腰掛岩7:05−7:12龍王池:八大龍王石碑−7:14身代地蔵−7:17分岐−7:28鳥居−7:30鳥居−7:33山頂7:34−7:44分岐:最上稲荷800m−7:47ラジオ塔−7:53分岐=7:59八畳岩=8:02分岐−8:05題目岩−8:19最上稲荷8:20−8:27妙見堂−8:31秀吉本陣跡8:32−8:37洗心閣−8:42旧本殿−8:54題目岩−9:05大鳥居分岐−9:13身代地蔵−9:14龍王池9:21−9:27駐車場

登山
 今日は龍王山(りゅうおうざん287m)を訪ね、最上稲荷に寄ってみる

 登山支度をして出発する 龍王山往復では物足りないので、最上稲荷に回ってみる予定 龍王池へ向かう 境内には種々の品種の椿が植えられているようで、名称を記載した札がある 蕾を膨らませているが、蕾の様子もそれぞれ違う ロウバイの木もあり特徴ある花を咲かせていた
 
 ルートを行く 畑が広がりホトケノザなど野の花に霜が降りており、寒々とした景観 まだ陽射しは無い サギソウ湿地*2) こい岩湿地と書いた案内標識が見られるトキソウ(5月下旬)サギソウ(8月中旬の記載があった
 
 交差点を直進し、ルートをゆくと八大龍王の大きな石碑が見えてくる その前面に龍王池が見える 石段を登り石碑を見る ルートに戻ったところに龍王池と八大龍王の説明*3)があった そしてすぐ身代地蔵 鯉岩 六道地蔵*4)がある 六道地蔵は沢山のお地蔵さんが並んでいる 説明によると "地獄、餓鬼、畜生、修羅、入間、天上 六道の衆生を救済して下さる菩薩" との事

 龍泉寺境内から奥の院へ向かう 石柱を抜け、幅広のルートを登って行く ソヨゴ*(*は実を意味する) サルトリイバラ*を見つけ数分で三差路に出る これを左にとる 右へ行けば最上稲荷

 石の鳥居があり石段が続く 石段が終わったところにも石の鳥居があり、そこからいろいろな形をした大きな石碑がルート両側に設置されている その間を抜けるともう一つ石の鳥居がありそこを過ぎると社務所があり続いて奥の院祈祷所がある 大きな石碑が林立している ここが龍王山の山頂のようだ 高いところを目指す そこから周辺の景観を伺う事が出来る
 
 景観を一望し 釣鐘に沿った階段を降り 本殿に 本殿に近づくとお経をあげている声が聞こえてくる 祈祷所の前にはクロガネモチ*が赤い実を沢山つけていた
 
 今度は最上稲荷を目指す 登ってきたルートを三差路の少し手前まで戻る そこを左に折れると大きな鳥居があり 先ほどの三差路からの道と合流する ルートを行く 鳥居からすぐに面白い形をした構築物があり説明パネルの裏側が見える 今歩いているルートは最上稲荷から奥の院へのルートを逆向きに歩いているので 案内パネルも向きが逆になっている 回り込んで見ると 最上稲荷境内ラジオ塔と言う事がわかった 長い文章でいろいろ書いてあった 写真に撮り ルートを行く 写真に撮ったものを改めて見ると中國稲荷山鋼索鉄道(ケーブルカー)・奥ノ院駅跡*5)という説明があった 残念ながら、ケーブルカー駅跡はどこなのか気づかなかった 確認するのはまたの機会にしよう
 
 幅広のルート 緩やかな下りを降りて行く 龍泉寺から登ったより長いように感じる 最上稲荷と龍泉寺では龍泉寺まで車で大部登っているが 最上稲荷はそうした登りは無い 最上稲荷の標高が低いからと勝手にうなづく 八畳岩への案内があるのでそちらに入って行く
 
 巌開明王を経由する 巌開明王*6)の説明がありわき水が出たという伝承の場所 を経由して進むと最上尊降臨の霊地・ハ畳岩*7)と書いた大きな説明パネルがあり すぐに八畳岩の上にあたる位置に出る 大きな岩の上に小さな石造りの社がある 回りこんで降りて行くルートに気づきそこを降りて行くと 八畳岩を見上げる位置に出 岩窟を伺う事が出来る ここにサザンカが花を咲かせていた
 
 ルートに戻り最上稲荷へ降りて行く 樹木の間から最上稲荷門前町の駐車場等を見下ろす事が出来るスポットがある 雰囲気として、ケーブルカーがあったルートのようだ 今度は石段のルートとなりこれまでより傾斜がきつくなる 右手に題目岩・鬼子母神*8)と書いた説明があり 山肌に大きな岩があり鳥居が並んでいる そこを登って行けば岩のところに出るようだが今回は見合わせ、石段を降りてゆく お稲荷さんの鳥居が増えてくる 本殿が近いようだ 途中分岐があったが右手方向に降りてゆくと旧本殿の脇道に出る 更に降りてゆくと 本殿に出る
 
 あれ!?こんなに立派な構築物だったか? 前回ここを訪ねたのが2001年1月 その時の写真を見るとやはり違っていた いつ頃建立したのだろうかと調べてみた こちらのサイトに 旧本殿の説明があり "新本殿建立ため、昭和49年(1974)現在地に曳屋方式で移築された。平成16年(2004年)2月24日付けで、本殿が岡山市の重要文化財に指定された。”との記載があった 
 
 本殿境内から仁王門を伺う事が出来る 本殿が新しく建立されたとは思っていなかったので記憶があやふやなせいにして仁王門も境内から写真をさっと撮ったもので 改めて見直しびっくりした 次回は門前町にも足を伸ばすようにしよう
 
 妙見堂・秀吉本陣(一の丸)案内の横断幕がありその前に秀吉が最初に陣を構えた地(一の丸)*9)と書いた案内パネルが目についたので案内に従ってルートを登って行く 妙見堂に出る そこにも備中高松城の守護神を祀る妙見堂*10)とした説明パネルがある パネルの近くにナンテン*が赤い実をつけていた
 
 妙見堂を後に更に登って行く 分岐を案内に従い右へ行く 妙見堂から3分程登ったところに秀吉本陣跡という石碑がありすぐに展望が得られる場所に出る そこには水攻めの戦いの陣構えのイラストがあり秀吉が最初に陣を構えた地(一の丸)*11)と書かれた説明がある 振り返ると日本の柱と書いた台座に立っている日蓮聖人像がある(備前焼で作られているそうだ) ヒサカキが実と花芽をつけているのを見つけルートを戻る
 
 最上稲荷のこれらの位置関係がわからない 裏手からきた為か案内図のようなものに気づかず気ままに歩いている 折角少し高いところまで来たのでそのまま登って行くルートを見つけられないかと妙見堂の先の分岐を直進し 出たところを右にとり登ってゆくと広場に出た どうやら洗心閣らしい その先にルートを見つけられなかったので戻り 降りたところが旧本殿だった 取り付け道路に出て 降りてきたところから登り返す
 
 降りてきたルートを追って登ってゆく 旧本殿から20分少々で大鳥居の分岐に出る ここを左にとる ここからは下りである 龍王池に寄り記念写真をとる 池には暖かな陽が射し 女性お二人が岩の上で飲み物などをとりながら休んでおられた 気持ちいいですねと声をかけ 少し離れたところへ行き記念写真を撮り失礼する そして駐車場に 駐車場はかなりの車 車載温度は7℃ 陽射しを受けており少し走ったら5℃に下がった
 
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*1)太閤腰掛岩
 天正10年5月 高松城の水攻めの際足守川をせきとめ注水する為 馬をかりて、この山城一帯を検分せし時 馬を止めて一休せし処と伝う
 
 
*2)龍泉寺の自然マップ
 龍王池周辺の湿地は、現在では見かけることが少なくなった野草が自生し、ハッチョウトンボなど多くのトンボも生息しています。
 龍泉去の自然を守る会は、龍泉寺の豊かな湿地の自然を守り、後世に残す活動をしています。

野草の開花時期 緑色 湿地の野草
4月 ショウジョウハカマ シハイスミレ
5月、トキソウ ゴウソ ヒメハギ
6月 オニスケ ヒメミクリ ノハナショウフ ジュンサイ モウセンコケ オカトラノオ ミヤコグサ
7月 ホザキノミミカキグサ ヌマトラノオ カモノハシ チゴザサ ノギラン ネジバナ
8月 サギソウ アギナシ ヒメオトキリ シカクイ コイヌノハナヒケ イヌタヌキモ コマツナギ
9月 ミズトンホ サワギキョウ サワヒヨドリ ミミカキグサ シロイヌノヒケ イトイヌノヒゲ ヒメシロネ ムカゴニンジン キセ1レアザミ コマツカサススキ オミナエシ オトコエシ アキノタムラソウ イタドリ シラヤマギク
10月 スイラン シロヨメナ サイヨウシャジン ススキ アキノキリンソウ コウヤポウキ  

トンボの出現時期
以下省略

龍泉寺の自然を守る会
https://ryusenji-ncc.org

 
*3)龍王池
 龍王池を八大龍王の御神体としてお祭りしています
 吉備津彦命の軍奉行であった楽々森舎人(ささもりとねり)(桃太郎伝説の猿のモデル)が水を湧き出させたといわれています。

八大龍王
 生命の源泉である水の神様です。
 人々の願いにあわせて、八つの異なる姿に変化(へんげ)し、人々をお救いになります。
最上時御滝 龍泉寺
 

*4)六道地蔵
 寸べての衆生が生前の善悪の行いによって、死後に生まれかわって佳むという六つの迷いの世界。
 地獄、餓鬼、畜生、修羅、入間、天上 六道の衆生を救済して下さる菩薩。
 
  
*5)中國稲荷山鋼索鉄道(ケーブルカー)・奥ノ院駅跡
 1929年2月9日、最上稲荷境内の山下駅(現:旧本殿付近)と当地を結ぶ中国地力唯一のケーブルカーが開通しました。総延長は約390m、所要時間は4分、20分間隔で運行していました、川別業以来大勢の参拝
a・に利Jljされ親しまれましたが、太平洋戦争の局面の悪化により鉄材供出のため1944年に廃止となりました。レールは軍需用に転用されたそうです。
 2016年に相次いで発見された営業当時の2本の映像によると、喫ノ院駅前広場にはシーソーやプランコ などの遊具やうどんなどを提供する茶店があり、ケーブルカーに乗ることも参拝の楽しみだったことが分かります。当時の面影は、乗降場や巻上機の台座などの一部からうかがえます。

最上稲荷境内ラジオ塔
 戦前に高級品であったラジオ普及のために全国各地に450基ほど建てられたラジオ塔ですが、現存するものは20基程度と言われています。
 数少ないこの貴重な当山のラジオ塔は、1939年に建てられました。当時は、この広場を利用してラジオ体操が行われたほか、音楽や落語などの番組が放送され、ケーブルカーの利用者を楽しませたのでしょう。戦前から戦後という激動の時代を見届けた貴重な近代遺産です。
 奥ノ院駅跡地は、崩落の危険があるため立入禁止です
 ラジオ塔には、願掛けなどの石を置くのはお止めください
 2017年 最上稲荷
 

*6)巌開明王という名称は、報恩大師がご修行の際に端座された岩(巌)の一つが割れ、清水がわき出したという伝承に由来します。
 かたわらの岩に囲まれた泉をさしますが、飲用ではありません。
 飲用は同じ水源の水「御神水」が大客殿にてお汲みいただけますので、そちらをご利用下さい。
最上稲荷総本山
 

*7)最上尊降臨の霊地・ハ畳岩
 天平勝宝四年(七五二)、開山・報恩大師が、孝謙天皇の病気平癒のため八畳岩の岩窟に籍もり、観世音菩薩普門品の呪を唱えて祈願されたところ、二十一日目の早暁に最上位経王大菩薩(最上尊)を感得。そのお姿を自ら刻み祈願を続けると、天皇は快癒されたと伝えられています。
 八畳岩は、最上尊が最初にお姿を現わされた聖域・最上稲荷総本山の根本霊場として、篤い信仰を集めています。また龍王山も吉備史跡県立自然公園および保安林に指定されています・当地においては、尊崇の念を持ち清浄護持を心がけて下さい。
 

*8)題目岩・鬼子母神
 題目 という名称は、高さ釣八メートル 巨岩に刻まれた「南無妙法蓮華経」の文字に由来します。
 その隣に刻まれているのは法華経の守護神・鬼子母神のお姿で、共に妙教寺十五世日方聖人により19世紀半ばに彫られたものです。
最上稲荷総本山
 

*9)秀吉が最初に陣を構えた地(一の丸)
 天正10年(1582)4月、中国平定のため西進する羽柴秀吉軍は毛利氏手勢の備中七城を攻めるため、備中高松にたどりつき、備中高松城を見下ろす龍玉山に本陣を構え、砦を築きます。当山一の丸は秀吉が軍議を行った古跡と伝わります。
 開戦後、沼地の要害に守られた備中高松城を攻めあぐね本陣で悩む秀吉に、軍師黒田宮兵衛が「水攻め」を献策します。この献策を取り入れた秀吉は、指揮するのに都合のよい石井山に本陣を移し、築堤工事を開始。
足守川の水取口より東方向の蛙ケ鼻(かわずかはな,)まで3kmの堤防をわずか12回日間で作ったと伝えられています。
 水攻め後、城兵5000の命と引き替えに切腹した清水宗治の死により開城となり中国大返し・山崎の戦いを経て、秀吉は天下人への道を駆け上がっていきます。
 当山はこの戦いの際に堂宇を失いましたが、ご本尊だけは別の場所に安置されたため、慶長6年(1601)に日蓮宗寺院として再興され、現在に至ります。
 *画像は、最上稲荷に保管されている戦前の作品 「備中高松城水攻絵物語」の場面です
 ここ、境内からーの丸への途上に建つ妙見堂には、備中高松城の守護神と伝わる「妙見さま」がお祀りされています(6月第二日曜日に[妙見祭]
が執行され、ご開帳されます)。
最上稲荷総本山
 

*10)備中高松城水攻めの戦
備中高松城の守護神を祀る妙見堂
 天正10年(1582)4月、中国平定のため西進する羽柴秀軍は毛利氏手勢の備中七城を攻めるため、備中高松にたどりつき、備中高松城を見下ろす龍王に本陣を構え、砦を築きます。
 当山一の丸は秀吉が軍議を行った古跡と伝わります。
 開戦後、沼地の要害に守られた備中高松城を攻めあぐね本陣で悩む秀吉に、軍師・黒田官兵衛が「水攻め」を献策します。
 この献策を取り入れた秀吉は、指揮するのに都合の良い石井山に本陣を移し、築堤工事を開始するのです。
 *画像は、最上稲荷に保管されている戦前の作品 「備中高松城水攻絵物語」の場面です
 ここ、境内からーの丸への途上に建つ妙見堂には、備中高松城の守護神と伝わる「妙見さま」がお祀りされています(6月第二日曜日に[妙見祭]
が執行され、ご開帳されます)。
最上稲荷総本山
 

*11)秀吉が最初に陣を構えた地(一の丸)
 天正10年(1582)4月、中国平定のため西進する羽柴秀吉軍は毛利氏手勢の備中七城を攻めるため、備中高松にたどりつき、備中高松城を見下ろす龍玉山に本陣を構え、砦を築きます。当山一の丸は秀吉が軍議を行った古跡と伝わります。
 開戦後、沼地の要害に守られた備中高松城を攻めあぐね本陣で悩む秀吉に、軍師黒田宮兵衛が「水攻め」を献策します。この献策を取り入れた秀吉は、指揮するのに都合のよい石井山に本陣を移し、築堤工事を開始。
足守川の水取口より東方向の蛙ケ鼻(かわずかはな,)まで3kmの堤防をわずか12回日間で作ったと伝えられています。
 水攻め後、城兵5000の命と引き替えに切腹した清水宗治の死により開城となり中国大返し・山崎の戦いを経て、秀吉は天下人への道を駆け上がっていきます。
 当山はこの戦いの際に堂宇を失いましたが、ご本尊だけは別の場所に安置されたため、慶長6年(1601)に日蓮宗寺院として再興され、現在に至ります。
最上稲荷総本山



アプローチ
 薄っすらと明るくなりだした頃倉敷を出発 車載温度1℃ 吉備路429を走る 180号を横断し県道271へ向かう 県道は工事で一部通行止めが続いている 180号バイパス・県道192を経由して県道271を行き、再度429に合流する そして足守の手前岡山空港の標識を右折し空港の方向へ進む カ−ブする道を登って行くと大きく右にカ−ブをとる位置に龍泉寺の標識がある 標識に従い境内に入り駐車場に駐車させて戴く 太閤腰掛岩*1)のすぐそばである すでに1台駐車していた 車載温度は-1℃