気楽体とは?
Let it be !

Model 3 気楽体とは何もしない治療法
あらゆるテクニックを捨て去った治療法。
あなたの自由意思に任せる治療法。

 難しい理屈は不要。 医学的知識も、修行の類も、何もいらない。 手で、触れる、かざす、動かす、何でもいいし、そうしたいように、外形は自由にしていい。外形が自由とは、内側が肝心ということ。 内側のエネルギーの流れ、つまり、気を十分に実感し、味わい、楽しむ、そちらが主眼なのである。 治療者自身が、リラックスして楽にあり、よけいなことは何もせず、無心に、気を楽しんであること・・・これが結果的に治療となる
無心で気を楽しむ
  ところで、気とは、目に見えずとも、ある働きがあるとき、そこにあるものを指す。
 古代中国では、森羅万象すべては気より成り、気のはたらき、と宇宙を理解した。
 したがって、気を実感するとは、結局、自分自身がなんたるかを感じとることである。
 自分がそれなのだから、本来、気は感じとれるとかとれないとかいうものではない。
 気を出す出さないとかいうものでもない。
 ただ、人は自分のことは見えずとも他人のことは見える。
 だから他者という気に触れてみることは、とても役立つ。

 そこで気楽体は、気を実感し遊び楽しむための、気の効いた一方法、ということにもなる。とにかく、気を楽しみつつ、自分もまた気なのだ、と理解することである。すると、治療の場は、気が縦横に満ち流れる、いわば、気の次元(?)と化する・・・。気の次元においては、さまざまなことが起こる。
 いったい、何が起こるか?それは、やってのお楽しみ・・・である。 起こることが起こる。
 何ひとつ知識なんかなくとも、さまざまの何かが、起こる。ここで肝要なことは、治そうとかからないこと、あえて「何もしないこと」である。
 治そうと力めば、種々に名づけられた手当法や念力治療、となる。何もしないことに耐えきれず、なんらかの手技で、どうこうしてやろうと計れば、○○治療法、と化す。治そうとはせず、何もしなくとも、何かが起こる。
 あたかも人の命や宇宙のもろもろが、本当はそのような連なりとしてあるように・・・。起こるべくして、必要な何かが、おのずから起こる。だから、それを待つ・・・・・。 ただし、そうしたもろもろ、現実のなりゆく様に気づくには「観ること」が必要。「今、そこにあるものを、あるがままに、あれこれ解釈することをやめ、ただただ、観察する・・・」それをして、はじめて何かが、おのずと観えてもくる…だろう。

         
・・・・・・本当に求めるなら求めようとしないこと・・・・・・

まず病みを認め、そして観察する
 仮に、ある痛みがある、としよう。ふつう、まず考える。その由来を考え、名前を考え、よかれと考えられる方法で、それを取り除こうと考える。それが治療とされる。
 気楽体にあっては違う。まずは、痛みを認める。今、確かな「現実」として、認め,かつ、それが何であり、どこに由来するのか、一切問わない。「現実」として認めるとは、おのずから然るべく、正当な埋由があって、今、そこに、その痛みは在ると認める、ということだ。
 その痛みを、いいとか悪いとか、勝手に解釈しない、という意味だ。先見的に痛みを「悪と決めつけ、現実を否定し歪め見ておいて、どうして、現実ありのままが観えてこれるだろう。
痛みとは実は、自分の現実が見えてくる、それをこそいうのではないか。
 病気、災難等々も、本当は、現実が本人に、その現実への無明さに向かって投げかけてくれる光のようなものではないのか。
 気楽体にあっては、ある痛みを現実として認めたうえで、何もせず、・・・あるがまま・・・を観察しようとする。……と、まさにその営みこそが、実は、宇宙の理を信頼し、いっさいを宇宙におまかせすることにつながっていく。
 つまりは、人智の一面的考えによらず、人間を超えた大いなるものが、無為自然のうちに、なりゆくままに成り行く。目には見えずとも、そのようなエネルギーの流れを実感じ、味わいつつ、そうした宇宙の理に身をゆだね、楽しむ・…。
  ひとつの痛みから始まって、そこまで見えてくるとすれば、治療はもはや、単なる治療にとどまってはいないだろう。たとえば治療において、目に見える表次元で、すーっと「楽」になるという現象が起こると実際はその裏に、目には見えずとも、「気」のはたらきがある。そうしたあり様=からだを気楽体と称する。
 またたとえば、人がその生において、より「楽」な自然に即した生き方を求めるとすると、そこには目に見えずとも、おのずと「気」宇宙エネルギーが、人を助けるべく働く。 なぜなら、宇宙=からだは、始めから、そう創られてあるから…。
 すなわち、ありとしあるもの、宇宙のことごとくは、気を基盤としつつ、可能なかぎり、楽で、楽しくあるのだ。要するに、気と楽とは、コインの裏表、本来ひとつのものの、2つのあらわれであり、それが人を含めた森羅万象の本当の姿なのかも知れない あるいは人は同じ裏表を、気と愛、と呼ぶかもしれぬ。色と空、と呼ぶかもしれない。
 表現は十人十色でいい。人もまた、宇宙の一小断片、とすれば、われわれがふっと無心になれる時、別に何ひとつせずとも人は、われとわが本然もともとの姿に、いとも簡単にたちもどりうるのではないか・・・いとも簡単に…。
             そのような可能性の、ささやかな体験領域・・・。 
  参考文献:「気楽体」 宮城 英男著より

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