糾が風邪を引いたら
§その1
目覚めを導くのはいつもと同じ。柔らかな朝の日差しと山鳥のさえずり。
開いた目に映るのは最愛の男性〔ひと〕の穏やかな寝顔。
「糾……」
その愛らしさ故にいつまでも見ていたいという思いと,同じ時間〔とき〕を過ごすために早く目覚めて欲しいという相反する思いが交錯する。
その交錯する思いの結果は……ちょっと長めのキス。
「んぅ……」
いつもと同じ,10秒ほどで糾は目を覚ました。
「おはよう」
一度唇を放してそれだけを告げると,糾が何かを言うよりも早く,再び唇を重ねる。
が,目を覚ましている以上,さすがに糾も無抵抗ではいない。ので,いつまでもそのままではいられない。
「…お,おはよう」
「おはよう,糾」
毎朝の事ながら慣れることのできない糾が真っ赤な顔でミラルカを引きはがすのも,やはりいつもと同じ光景であった。
が,その後がいつもとは違っていた。
「ッ…ハクション!」
「…糾?」
ミラルカの鳩が豆鉄砲を食らったような表情というものは滅多に見られるようなものではないのだが,糾にはそれをのんびりと鑑賞しているような余裕はなかった。
「ぁは……誰か噂してるのかな……ハックション!!」
『一,褒〔ほ〕め。二,腐〔くさ〕し。三,誹〔そし〕り。四は風邪引き』という巷間〔こうかん〕の格言はミラルカの知識の中にはない。が,糾が自分を心配させまいとしていることは分かる。
つまりは,糾がそうするほどの大変な状況なのだと思考が(微妙にズレ気味にではあるが)繋がったところで,ミラルカは即座に行動を起こした。
リンッ!
ベッドサイドに置かれた鈴が鋭い音を立てる。
糾の身に何かが起きていることは理解できた。だが,具体的に何が起きているのか,どう対処すればよいのかという知識をミラルカは持ち合わせていない。
そこで他者の力を頼らなければならないということは,実を言えばミラルカとしてはあまり快〔こころよ〕いことではない。
ではないが,自身のそんな矜持〔きょうじ〕よりも糾に対する想いの方が優先順位としては高い。
だから,『糾のために利用できるものは遠慮なく利用する』のだ。
トントン
「ご主人様?」
ノックとともにフィンの声が聞こえたのと鈴の残響が消えるのとどちらが早かっただろうか。
ただ,その声にはいつもの柔らかさは欠けている。
「どうなさいました?」
その証に,返事も待たずにドアが開かれる。
「フィン! 糾が…」
「ハクション!」
状況を理解し切れていないミラルカが『糾が風邪を引いたみたいだ』と簡潔に説明ができたかどうかは定かではないが,それよりも早く糾自身が百聞は一見に如〔し〕かずとばかりに盛大なクシャミを披露する。
「まぁまぁ,ご主人様…」
「ご主人様っ!!」
状況を把握したフィンが言葉を繋げるよりも早く,せっぱ詰まった声を上げたマージが部屋に飛び込んで来た。ドアが開いたままだとは言え,ノックも忘れる辺り,相当に慌てているようだが,あの鈴の音を耳にして飛んで来たのであれば,無理もあるまい。
「何事で……っ……」
恐らくは,『何事ですか?』と問い掛けようとしたのだろう。が,何故かその言葉は途中で途切れ,みるみるその顔が赤らんでくる。
「く,くぅ〜〜ん……」
「??」
入ってきた時の勢いは何処へやら,恥ずかしそうに(?)顔を赤らめるマージの視線を辿ってみると……
「わああっっ!!!!」
「見るなぁっ!!!!」
「あら,まぁ♪」
目を覚ました直後の糾のクシャミで二人ともすっかり忘れていたが……夕べもいつものように愛を交わして,そのまま眠りについたのだ。
と言うことは,今の二人がどんな格好をしているかというと……まぁ,そういう格好である(笑)
糾もミラルカも,二人っきりであれば少々の事は何を今更というところなのだが,フィンやマージまで揃っているとなると,それはまた別の話である。
ただ,悲鳴の中身と二人の行動の若干の食い違いは……いや,それすらもこの二人ならさもありなんと言うべきか。
顔を真っ赤にしてシーツを抱えこむようにして前を隠す糾と,自身の姿には頓着〔とんちゃく〕せずに糾の姿を包み隠すようにシーツを更に被せるミラルカという組み合わせは。
ある意味で幸いだったことは,糾が風邪を引いているという事実ゆえに,フィンもマージもいつものような「ご主人様とのじゃれ合い」を抜きにしていた分,事態の収拾は早かった。
「やっぱり,少しお熱がありますわね」
パジャマを着てベッドに落ち着いた糾の額に手を当てながら,フィンはそう診断を下した。
「夏とは言いましても,やっぱり明け方は冷えますからね」
山間〔やまあい〕のこの館は街中よりもかなり過ごしやすい。つまりは,気温が低い。いかにアツい仲の二人とは言え,服も着ずに開け放した窓からの涼風に身をまかせていれば,風邪を引いてもおかしくはない。
そこで糾だけが風邪を引いたのは,身体の丈夫さの問題か,それとも未だに精霊王としての自覚が薄い(言い換えれば人間であると言う意識が強い)せいか……。はたまた,糾が窓側だったために程よく風に冷やされたせいか(笑)
「無理をなさって明日以降に持ち越してももったいないですわ。今日はゆっくりとお休みになって下さいませ」
言われれば確かに熱っぽい感じもしないではないが,後はクシャミ以外に風邪を自覚できる症状はほとんどない。が,「風邪は万病の始まり」とも言うくらいだから,安静にして早く直すにこしたことはない。
なにより,先ほどから糾の顔をじっと見つめているミラルカの胸中を思うと,これ以上の心配をかけるわけにもいかない。
結局,フィンとマージがデリバリーしてくれた朝食を寝室で(ミラルカと一緒に)とった後,フィンが用意してくれた風邪薬を飲んでから一休みすることにした。