糾が風邪を引いたら
§その2
フィンが用意した風邪薬には鎮静の薬効もあったので,食後幾らも経たないうちに糾はうとうととまどろみ始めた。
無論,風邪を治すためにはそれはそれでよいのではあるが,側に付いているミラルカにとっては実は困る状況でもあった。理由は非常に簡単なことで,やることがない。あるいは,何をすればよいか分からないからである。
布団を掛け直し,額に氷嚢〔ひょうのう〕を載せてしまえば,実際やることはない。
無論,ただ単純に糾の側についていたいとも思う。
同時に,それ以上の何かをしたいとも思う。
けれども,何をすればよいのかが分からない。
そんな思考の無限ループは控えめなノックの音で中断された。
「様子どんな?」
応えも待たずにドアが開かれると同時のこの素っ気ない口調であるが,実はミラルカを相手にする時のフォニームはいつもこんな感じである。フィンが側にいればチェックが入ることもあるのだが,そもそもミラルカ自身が糾以外からの呼ばれ方や言葉遣いにほとんど頓着していないのだから,フォニームの側にも直そうという意識が生まれるはずもない。
「あぁ,眠っている」
「ふーん……」
時間帯からすれば食事の後片づけが終わってから来たのだろう。穏やかな糾の寝顔をしばらく眺めやってから,思い出したようにフォニームは告げた。
「そうそう。マムが用事があるから来てくれって」
「我に…か?」
「うん」
と,言われたところで,はい分かりましたと即答できるような状況ではない。
が……
「かんびょーの用意で手伝ってほしいことがあるって」
さすがにキーワードをよく心得ているフィンである。
「眠ってんだからだいじょーぶなんじゃないの。一応あたしがついてるし」
いくらなんでも,他の女性が側についているだけで悋気〔りんき〕を起こすほどミラルカも狭量ではないし,ここでは糾の側にいたいという思いよりも糾のために何かをしたいという思いの方が勝った。
「では,頼む」
「いってらっしゃい」
部屋を後にするミラルカを見送ってからフォニームは手近の椅子に腰を下ろした。
「呑気なもんよねぇ……」
穏やかな糾の寝顔を眺めやりながら,フォニームは呆れたように呟いた。
今朝方の騒ぎのとばっちりを多少なりとも喰らった身としては,その元凶がこうも呑気に眠りこけていると言うのは,正直言って愉快な状況ではない。
ではないが,だからと言ってそこで寝ている糾をたたき起こして八つ当たりができるわけでもない。と言うか,もしそれをやったら,フィンにどんなお仕置きをされるか分かったものではないからやらない,と言うのが正しいが……。
「覚えときなさいよ」
元気になったら,今朝のドタバタの分,今度はこっちが楽しませてもらうんだから。
さすがに声に出して誰かに聞かれてもマズイので,後半部分は胸中でそう呟いておいて,フォニームは時間潰しに書斎から持ってきた本を開いた。
さて,それからしばらくの後,ミラルカは糾の昼食を用意するために厨房にいた。
無論,一人で全部ができるわけではないのでフィンにサポートをしてもらいながら,である。
が,調理を始める以前の段階でちょっとした問題が持ち上がった。
ミラルカの料理の腕前……は,少なくとも館に来たばかりの頃に比べれば確実に上達しているわけで,フィンの監督下でのことであれば,まぁ,心配はない。
今回問題となったのは,ミラルカの服装である。
日常生活にはさして問題のない,シンプルなデザインながらミラルカの雰囲気によく合っているドレスなのだが……食事の用意,それも調理となると,余り適切な服装とは言えないのも事実である。
実の所,これまでにも支障がなかったわけではないのだが,そもそもミラルカが厨房での仕事をする場面自体が少なく,また簡単な作業でできる菓子作りがほとんどだったこともあって,手袋を外しさえすれば何とかなっていたのだ。
しかし,今回はそうはいかない。
さすがにこれまでの経験上,ドレスのままでは問題があることは否定できないミラルカに対してフィンが提示したのが……メイド服であった。
胸元の開いた黒いロングのワンピースと白いエプロンドレス。襟元には碧〔あお〕いリボンがアクセントになっている。そして勿論……ヘッドドレスも完備。
早い話が,エリカやマージのものと同じデザインのメイド服である。
リボンの色を変えてあるのはせめてもの気遣いだろうか。
もとから自分の服装にそれほどのこだわりを持っているわけでもないミラルカとしては,別段メイド服だからどうという思いはないし,胸元が開いたデザインになっていたところで,それは変わりはない。
変わりはないのだが,マージやエリカと同じデザインという点に関しては,実は素直に頷けない部分があったのも事実である。
もっともそれは糾の恋人であるハズの自分がマージ達と同じ服装をするということが,自分の立場を否定する行為のように感じられるという,本人にとっては重大な,しかし,他人にそうと告げるには抵抗感のある理由によるものだった。
無論,流石のフィンにしてもそこまでのことは分からないまでも,ミラルカが素直に頷かない(頷けない)場合への対応策程度はちゃんと用意がしてあるわけで,そんな用意周到なフィンが放った「ご主人様(糾)のため」という殺し文句に,それなりに経験値を獲得しているとは言え,こと相手への想いに関しては似た者夫婦という表現がピッタリと言うか他に表現が浮かばないほどに純朴なところのあるミラルカが対抗できるはずもなく,メイド服に身を包んで調理を始めることとなった。
……そのミラルカのメイド服姿などという予想外の光景を目にしたマージとエリカ(今日の昼食の手伝い当番だった)が石化するというトラブルがあったりはしたものの,芋粥と白身魚のスープ,付け合わせといったメニューの昼食を何とか昼までに完成させていた。