憂鬱な日
第1幕:憂鬱な現状
いつもと変わらぬ日々……否,いつもと同じ日々のうちでありながら,昨日とは違う日。
待ち焦がれた今日という日。
……のハズだった。
だがしかし,『好事,魔多し』とはよく言ったもので,待ち焦がれた嬉しい日であるはずの今日という日の始まりは……少々,いや,かなり憂鬱な始まり方だった。
『憂鬱な日』
「っ……」
自らの内から響く鈍い痛みが全身を包んでいる。
この屋敷とその近辺に限られてはいるものの,糾と結ばれる前と比べれば遥かに充実した世界での生活が始まって既に久しい。おかげで人としての生活もかなり経験したという自負はあったミラルカであるが,それだけにまさかこんな落とし穴が待っていようとは想像だにしていなかった。
「お加減はいかがですか?」
ノックの後多少の合間を置くだけは置いて,こちらの返事も待たずに客間のドアが開かれアメリアがワゴンを押して入って来た。
「……」
何か反応を……と思わないでもないのだが,下腹部を中心に広がる疼痛〔とうつう〕と脱力感のおかげで,正直そんな気力もない。
そんな自分の姿を情けないと思う気持ちがないではないのだが,現実問題として身体が思うように動かせないのでは如何ともしがたい。
そんな現状はアメリアも承知している。だからこそ,ノックへの応えがないままに部屋に入っているのだ。そうしなければ今現在の自分の役目が果たせないからこそ。
「食事をお持ちしました」
言われてようやく,今朝のドタバタ騒ぎのおかげで,まだ朝食も摂〔と〕っていなかったことをミラルカは思い出した。
そう言えば,下腹部の感じは空腹感に似ているような気がしないでもない。
そんなことを考えている間にもアメリアは食事を載せたワゴンをベッドサイドまで寄せ,サイドテーブルの上に料理を手際よく並べていく。
ベッドの上に起こした上体をクッションで支えながら軽めの食事を摂る。
「そう言えば……マージはどうした?」
実は日常の生活については自分の事の大半は自分で動くミラルカではあるのだが,『ご主人様の伴侶』という立場上,自然とある程度の世話が焼かれることになる。かつてミラルカの配下であったからというわけでもないのだが,それまでの各自の作業分担との兼ね合いやらの成り行き上,その世話はマージが担当することが少なくない。実際,今朝の騒動はマージがミラルカを起こしにきたところから始まっている。
その流れからすれば,食事を持って来るのはマージであってもよかったはずだが,すぐにそれに思い至らなかった辺り,初めての経験にミラルカもかなり混乱していたという事であろうか。
「午後にはご主人様が帰って来られますので,その前に山道の見回りに出ています」
対するアメリアの方はいつもと変わらぬ淡々とした口調で答えた。
なるほど,ミラルカの世話は他の誰がやってもさほどの違いはないが,山道での哨戒となれば,感覚の鋭さや機動力,戦闘能力などから考えてもマージが最適であろう。
と,納得しかけてようやく思い出す。
今日は糾が(館に)帰って来る日であることを。
それを思い出したところで,急に今現在の自分の状況が気にかかりだす。普段ほとんど着たことのない寝間着の感触が,自らの状態が常ならざることを強く意識させる。
咄嗟に気になったのは,糾が着くまでにどれほどの時間的余裕があるだろうか。ということだった。
無論それは糾に心配をかけたくない,イコール,その為に早く自身の体調を回復させたいという考えからのものではあった。が,そもそも自分の身体の状態が正確に把握できていないのでは,それ以前の話である。
「フィンからの伝言です」
一方で,ミラルカが自身の状態を正確に把握(というよりも実感として理解)できていないであろうことはフィンにしてみればいつものパターンであるから,当然それに対する対処と言うものも先手を打つことになる。
「?」
「ご主人様のお帰りまでに痛みを綺麗さっぱり取り除くなどという都合のよい手段は存在しておりませんので,大人しく休息して少しでも体調を整えておくのが最善であろう。とのことです」
多少の事であれば(以前,糾が風邪を引いたときのミラルカのメイド服の様な)軽いイタズラ心を発揮したりもするのだが,さすがに体調を崩している当人で遊ぶほどフィンは悪趣味ではない。
「そう…か…」
とにかくどうにかして欲しい。
それが現時点での偽らざるミラルカの願いではあるのだが,さすがにフィンとしてもこれはどうしようもない。
この体調不良の原因,痛みをもたらしている根本はミラルカ自身なのだから。
それに関しては今朝方にフィンから一通りの説明を受けたものの,説明を理解できるということと現状を受け入れられるということは別問題である。
「とにかく今はゆっくりとお休み下さい。調子が悪いままであれば,ご主人様も余計に心配なされるでしょう」
とは言うものの,ここで糾の事を持ち出されてはミラルカに勝ち目はない。
「……わかった」
何より,ここで少々ワガママを言ったところで何の役にも立たないのも事実である。
ということで,潔くフィンが処方した薬(主に鎮痛作用)を飲み,再びベッドに身体を横たえた。
「それでは,何かありましたらお呼び下さい」
最後にそう告げて,アメリアは部屋を退出した。