ハプニング

§前編

「ふぅ……さすがに冷えるわね」
 ふと感じた肌寒さに小さく身体を震わせて瑞穂は一人呟いた。
 築年数はかなりのものがあるが,良家の子女を対象としている学院の寮だけに設備はそれなりに整っている。暖房に関しても基本的には十分なものが設置されてはいるのだが,寒さ厳しいこの時期の夜半となれば,やはりどこからと言うでもなく冷気は入り込んでくる。
 加えて,制服よりも首回りの開きが大きいパジャマでは,どうしてもそこから肌寒さを感じてしまう。
 せっかくの入浴で温もった身体も,ふと気になった箇所を確認している間にすっかり冷え切ってしまっている。入浴直後の温もりに油断してガウンを羽織っただけだったために,特に足回りから冷えを感じる。
 幸いな事に遅いとは言っても軽くシャワーを浴びて暖まる程度の時間はある。
 そう判断した瑞穂は冷えた身体を暖めるために浴室へと足を向けた。

 既に他の寮生は休んでいるのか,寮内は静寂に包まれている。
 一階に降りたところで,浴室の扉から光が漏れているのに気付いた瑞穂は一度足を止めたが,僅かに開いた扉の隙間からは何の音も聞こえない。
 いつもの様に最後に入浴した瑞穂だったが,ふと頭に浮かんだ疑問を確認する事を急ぐ余り,明かりを消し忘れていたのだろうか。
 そう言えば,スイッチを操作した時の手ごたえに確証が持てない。
「消し忘れてたのね」
 そう判断した瑞穂は脱衣所に入ると手早く服を脱ぐ。

カラ

 そんな軽い音を立てて浴室へ通じるドアが開いたのは,ちょうど瑞穂が全てを脱ぎ終わった時だった。

「え?」
 てっきり最後に使った自分の消し忘れだと思い込み,誰かが居る可能性を全く考慮していなかった瑞穂は,とっさに何の反応も出来ず,ただ,開かれたドアの向こうに居る糾の姿を見つめるしかなかった。

「あ?」
 疲れてどこかボーッとしていた,という自覚はある。
 だが,それにしても誰も居ないハズ(居ないと思っていた)脱衣所に人が居たと言う事実に糾は呆然と立ちつくすしかなかった。



「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・」
 今のこの雰囲気を何と表したらいいのだろうか。
 物音一つしない中,糾と瑞穂は凍りついたように立ちつくしていた。
 互いに一糸纏わぬ姿のまま。

 この女子高の寮の中で,自分,つまり男が裸でいることを他人に見られた。という事実にのみ捕らわれ,停止したに等しい思考の中で,その事実に気付いたのはどちらが先だったか。
 相手の姿の異質さに気付いたのは。

 微乳という言葉はあるが,それよりも更に平坦な,双丘と言うよりも胸板という表現が適切な胸部。
 そして……股間に見える女性には存在し得ないモノ。
 知らず下がっていた視線が上がる。
 そこには,先ほどまでと明らかに異質な表情。
 その瞬間に二人は理解した。


「!!!!!!!!!!!!!!!」×2

 咄嗟に両手で口を塞ぎ,声を抑える事が出来たのは僥倖と言う他はない。
 塞がれた両手に封じ込められた声とともに抑え付けられた息苦しさを感じる頃になって,ようやく手が緩む。
 その手の緩みとともに全身の力も抜け掛り,その場にへたり込みそうになるところを辛うじて堪えながら恐る恐る視線を互いに向け合う。
 短距離走の全力疾走直後の様な動悸と荒い息。そして,どこか呆然としたような表情。

「くす」
「プッ」

 そんな場合ではないハズだというのに……二人の口から最初に漏れ出たのは笑い声だった。
 女子高に男が女装して通っている。
 隠しとおさなければいけない秘密がバレた相手が,よりもよって同じ秘密を抱えていたなどと,まるで喜劇の様な状況に出くわして,笑う以外にどうしろと言うのか。
 そんな二人の笑いが収まるまでには,やはり数分の時間が必要だった。



 改めてシャワーを浴びて身体を温めながら,二人は事情を簡単に説明し合っていた。
 瑞穂は祖父の遺言でこの学院に通う事になったこと。その為にまりやが全面的に協力をしていることを。
 糾はこの学院に通う事になった(大切な)フォニームの側に居る為にこの手段を選んだことを。

 無論,事情はそれほど簡単な事ではない。
 現代日本の戸籍制度は世界的に見ても厳密性の高いものである。その社会の中で性別を偽るという事は簡単な事ではない。アパートの隣人のように余り交流のない相手ならばともかく,学校と言う公の組織に対してとなれば,そもそもの身分証明の段階から容易ではない。
 だが,自分が現にこの場に居るように,相手もまたここに居る。
 ならばそれは,その難事を成し遂げるだけの何かがそこには介在しているという事に他ならないのだが……それがなんであるにせよ,簡単に他人に明かせるようなことではないだろう。
 それが全く気にならないと言えば嘘にしかならないが,逆に自分の秘密もそうそう明かせるようなものではない。
 だから,二人とも明確に口にはしなかったものの,相手の秘密に踏み込まないことを対価として,自らの秘密を守りとおすことを選択した。

「これからどうします?」
 お互いの話が終わった頃には程よく身体も温もり,服を着ながらの話は自然とこれからの対応が話題となっていた。
「……何もなかった事に……というのが一番理想だとは思うんですけど」
 瑞穂の問い掛けに糾はそう答える。
 お互いに秘密を抱えている身であるから,卒業までの残りの期間,それを守りとおすのは当然の事である。
「では,できればその方向で」
 無論,瑞穂もそれに否はない。
 秘密を共有する者同士に共通する,ある種の気安さのようなものが発生する事は完璧には避けられないにしても,それと分かった上で自らを律するのであればまるっきり対処できないわけでもないだろう。
 ただ……それでも一度事故が起こってしまった以上,懸念は拭い切れない。
「できなかったら?」
「その時は……しかたないですから,まりやとファムちゃんにはお互いに話をしましょう」
 まりやは糾が男である事を,そして,フォニームは瑞穂が男である事を知らない。
 そんな彼女たちの眼から見れば,糾と瑞穂の間の雰囲気がこれまでよりも親密なものに変化していれば,それは友情よりも厚意,あるいは恋情〔れんじょう〕とみなすであろう。
 正直それは好ましくはない。
 しかし,相手の秘密を明かさずに説得をするのは不可能に近い。
 そうである以上,そこまでは譲歩するしかない。

 夜気に冷えた身体を暖めるだけだったつもりが,予想外の出来事に刻限はかなり遅くなってしまっている。
 明日も学院の授業があるのだから,そろそろ休まないと寝過ごしてしまいかねない。
 そう思っていたのだが……「Misfortunes seldom come singly.」という表現は伊達ではない,ということだろう。
 廊下へ出たところで二人は,どこか呆然とした表情のフォニームと鉢合わせする事となった。



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