ハプニング
§後編
不意に感じた奇妙な胸騒ぎ。
それはなんでもない事なんだと思おうとして……でも思えなくて。
だから,糾に会いたかった。糾の側に居たかった。側に居てほしかった。
そして,大丈夫だよ。って言ってほしかった。
けれど,部屋に糾は居なくて……余計に募る想いに衝〔つ〕き動かされるまま,確固たる理由も分からぬままに足を向けた先で眼にしたものは,浴室から出て来る瑞穂と糾の姿だった。
「あ……あ,糾…」
何を言ったらいいのだろう?
自分は何を言いたいのだろう?
対する糾自身,「もしも」という想定はしていたが,まさかその話の直後にそうなるとはまでは思っていなかっただけに咄嗟の判断は遅れていた。
そんな状態で瑞穂が動けたのは,やはり『お姉さま』は伊達ではない,とは言い過ぎだろうか。
じっと糾の顔を見やるフォニームの側へ淀みを感じさせない自然な動きで近づくと,その身体をフワリと抱きよせた。
「大丈夫よ,ファムちゃん。貴女〔あなた〕の大切な人を取ったりはしないから」
「え?」
半ば本気で瑞穂の存在を忘れていたフォニームは虚を衝〔つ〕かれたように惚けた表情で瑞穂を見やった。
「大丈夫」
そう言葉を重ねながらフォニームの額に唇を触れさせかけたところで,ようやく我に帰った糾が横合いからフォニームの身体を引き剥がす。と言うより,奪い還す。
「って,どさくさ紛れにフォニームに何をするんですか!」
これが瑞穂の正体を知る前であったのならともかく,この状況下ではフォニームを説得しようとしていると言うよりも「お姉さま」という立場を利用してフォニームを口説こうとしているようにしか糾には見えなかった。
しかもそれが,正体を知っている自分の眼から見ても素敵な女性の振る舞いにしか見えないものだからよけいに質〔タチ〕が悪い。
「冗談ですよ。僕だって馬に蹴られて死にたくはありませんから」
そう言ってくっくっと笑う瑞穂とどこか憮然とした表情の糾。そんな二人のやりとりについていけないまま糾に抱きしめられていたフォニームは,ようやく二人の間の違和感を感じとる事が出来た。
そして,不意にその言葉が甦る。
瑞穂が口にした『僕』という言葉が。
「???」
「私の部屋で話しましょうか」
いくら寮内に暖房が設置されているとは言っても,廊下と寮生の部屋とが同じ程度に暖かいわけはない。こんなところで話し込んでいてはせっかく温もった意味がない。
という事で場所を改める事にしたのだが,これからの話題が話題なので,どこでもと言うわけにはいかない。幸いな事に瑞穂の部屋は寮の北の端で,他の寮生の部屋とは空き部屋を幾つか挟んでいるので,密談(?)には適当である。
思いもかけず重大な事態になっている,と言う事は直感的に理解できたフォニームだったが,それが何なのかまでは正確に把握できておらず,釈然としない部分はあったものの,だからこそ素直に瑞穂と糾の言葉に従う事を了承した。
話の内容が内容なので,やはり瑞穂としてはまりやを抜きにして進めるわけにはいかない。
幸いな事にベッドに入ったばかりだったまりやは,瑞穂の何時になく真剣な表情に何を感じとったか,固い表情のままやってきた。
三学期に入ってから一子は「お姉さまの勉強の邪魔になってはいけませんから」と奏や由佳里の部屋にお泊まりをする事が増えており,今夜は由佳里と一緒である。瑞穂からすれば彼女も自分の秘密を知っている一員ではあるのだが,今回は他人(糾)の秘密が関係している。むやみと広げていい話でもないので,これ幸いと話からは除外している。
それに,瑞穂の秘密を知っているからという事で話を広げると,紫苑にまでも話が広がってしまう。一子や紫苑を信頼するしない以前の話としてそれは問題がある。
「さて……」
一応は自分の呼びかけで集まってもらうという形になった責任からか,瑞穂が口を開きかけたものの,何と説明したものかと,ふと言葉が途切れてしまう。
「……あんまりこういうのは僕も得意じゃないんで,単刀直入に言いますね」
それでも進めない事にはどうにもならない。
ここ暫くの間にすっかり馴染んでしまった『お姉さま』としてではなく,意識してただの,否,男としての「瑞穂」の言葉を紡ぐ。
「ちょっ,瑞穂ちゃん!」
突然の事に驚きの声を上げるまりやを片手を上げて制しながら,そのまま言葉を繋げる。
「ファムちゃん,実は僕も糾君と同じ事をやってるんですよ」
「「え?」」
瞬間,まりやとフォニームの思考が停止した。
「「同じ事?」」
瞬き数回ほどの間をおいて期せずして同じ言葉が二人の口から洩れる。
そのまま時計の振り子のように視線が糾と瑞穂の間を数回往復し……最後にフォニームの視線が瑞穂に,まりやの視線が糾に向いて止まったところで,絶叫が零れた。
「「ええええぇっっ!!!!○△○×◇」」
かなり驚くだろうと予想はしていたのだが,その予想を上回る驚きかたに,糾も瑞穂も二人の絶叫を完全に止める事は出来なかった。
幸いな事に万が一を考えて瑞穂の部屋を場所に選んでいただけに,奏や由佳里の部屋にまで声が届いた様子はない。
口を抑えられて,反射的に振りほどこうとしたまりやたちも,事態が事態だけに何とかその声を静めた。
「んでもさぁ……それホントなの?」
深呼吸を数回繰り返して落ち着いたらしいまりやが,まずは素直な疑問をぶつけてきた。
確かにまりやからしてみれば,瑞穂が女装しているという事は知っている(どころではなく自分も積極的に関与しているのだが)とは言っても,糾までが同じ事をしているなどと言われて,そう簡単に信じられるわけではない。
穿〔うが〕った見方をすれば,糾は正真正銘の女子生徒で,瑞穂が手を出してしまった事を誤魔化すために口裏を合わせているのではないか,という見方もできる。
と言うよりも,実はそうだったのだと打ち明けられた方が,まだ信じられるというのが本音であった。
瑞穂が女子生徒に手を出す可能性の低さはさておいても。
そして,立場が同じであるフォニームが辿った思考も,まりやと大差がない。
いや……容姿や言葉遣い,完璧な家事能力など,全ての点において目標であり,そしてそれゆえに糾を巡る最大のライバルともなったマム(フィン)とはタイプが違うが,それでも並び立つとフォニーム自身が認めざるを得ないほどの素敵な女性である瑞穂に糾を取られてしまうのではないか,という恐怖感は,まりやが抱いている不信感などよりも遥かに大きいかもしれない。
「じゃぁ……これでどうですか?」
さすがに内容が内容だけに口で言っただけで100%信じてもらえるとは瑞穂も糾も思ってはいない。
ではどうするかと言うと……完璧な説得力と言うなら浴場の再現にまさるものはないだろうが,年頃の女の子相手にそれはさすがに無理がある。
無理があるが,そもそも瑞穂が男である事をフォニームに理解させる,あるいは逆に糾が男である事をまりやに理解させることができる手段は非常に限られたものしか存在しないことも事実である。
とにかくこの場は事実を理解してもらわない事には先へ進めない。
そう判断して,糾はガウンを脱いだ。
他に適当な手段を思いつけなかった瑞穂もそれに倣〔なら〕う。
「え?」
「ちょ,ちょっと!」
余りの行動に声を上げるフォニームとまりやを無視してパジャマの前をはだけると,パッドごとブラジャーを外す。
「・・・・・・・・」
そして現われた,サイズが小さいと言うのとは明らかに異質な胸部にまりやとフォニームは言葉を失った。
「いやぁ……世の中,何があるか分かんないもんよねぇ〜〜」
もっともらしく腕組みをしたまりやが一人頷きながらしみじみと呟く。
確かに否定は出来ないのだが,確認の為と言いながら胸を鷲掴みにされた糾としては素直に頷けないところがあった。
勿論,大切な糾にそんなことをされたフォニームも。
「えっと,まぁ,つまりはそういうことだから。この事はお互い秘密,と言う事で」
ただ一人,取り残されるような形になった分,逆に余裕の残っていた瑞穂が事態の収拾をはかる。
勿論,誰にも否はない。
と言うより,お互いにその秘密が守られなければ,残り僅かの学院生活自体が消滅してしまう事になる。他に選択肢がないというほうが正しいだろう。
「それじゃ,改めて,卒業までよろしくおねがいします」
糾としては誓約というつもりではない。ただ,なんとなくこの場はそうするのが相応しいと思えて,右手を差し出す。
「こちらこそ」
そう言い返して,瑞穂はその手をしっかりと握り返した。
こうして,女子高に通う男同士という他に類を見ない二人の間に結ばれた約定は,一応は破られる事はなかった。
翌日,二人の雰囲気を訝〔いぶか〕しがった紫苑の引っ掛けに糾が自爆したのを除けば。の話であるが。