DIARY
この闘病記は僕が脳出血で倒れた時から今まで(リハビリ含む)を綴った日記です。
記憶を振り絞って思い出して随時アップしていきます。

身近に僕と同じような人がいれば、この闘病記をみせてあげて勇気づけてあげて下さい。勇気づくかな?
その方に伝えたいメッセージがあります。

1.回復の目標は自分自身で決めるものです。たとえ、周囲の人が不可能と判断しても、自分でやりたいことを決めること。それがリハビリの到達目標です!

2.目標を達成するのには、気の遠くなるほどの時間を必要とします。あなたのつぎ込んだ努力が膨らんでくれば、必ず目標が近づいてくるでしょう。 

リハビリでは本当に多くの方々のお世話になりました。僕のリハビリは、今も進行中です。

脳出血&リハビリの 体験記(闘病記)をホームページで公開することにしました。僕と同じように脳出血で倒れた方に参考にして頂けるかも知れません。 そして、その方がリハビリの目標を達成した時、こちらに報告を頂けたら嬉しいです。 (^_^)v
日 時
日 記
2000年11月22日

朝から左手の親指が痺れていた。その時は手を引いて寝てしまった痺れと思っていた。これは、今から考えると既に脳出血が始まっており、手の麻痺が始まっていたのだと思う。お昼まで、普段どおりに仕事をして、お昼御飯を食べに、会社の部長と先輩達と原宿では珍しい”長崎ちゃんぽん”が食べれるお店に行った。そこで僕は、皿うどんを食べた。そして、喫茶店でコーヒーを飲んで会社へ戻った。そして、2時過ぎた頃から、手(指)が動かなくなって、これはおかしい!と思いはじめた。そして、頭がボ〜としはじめた。この時、社長に『手が痺れてるんです』と言うと、社長は『脳かもしれないから、病院に行った方がいいよ!』と言ってくれました。今から思うと、社長の言葉がビンゴでした。そして、あまりに我慢できなくなってきたので、病院に行こう!と思い、僕は東京の病院には詳しくなかったので、部長に『この近くで大きい病院はどこにあるんですか?』と訪ねると『慶應大学病院があるぞ!』と返答があったので、慶應大学病院へ向かうことにしました。電車に乗り継いで行く自信がなかったので【これが運命の別 れ目だったような気がする。もし電車で行っていたならば、大惨事になっていたかもしれない】、タクシーを会社の前で捕まえて乗り、運転手さんに『慶應大学病院までお願いします。』と伝えた。運転手さんに『どうしたの?怪我でもしたの?』と訪ねられて『いいえ。ちょっと手が痺れて、気分が悪いんです』と返答した。5分ぐらい走っただろうか、気分がかなり悪くなり、タクシーの中で倒れてしまった(運転手さんはビックリしただろうな〜)。そして、微かな記憶だが、足を叩かれて、運転手さんが『病院ついたよ!!大丈夫!?先生呼んでくるから待っててね!!』と言って走って病院内へ走っていった。そして、5分ぐらいすると、看護婦さんとお医者さんらしき人たち5〜6人がタンカをもって走ってきた。そして、僕はタクシーの後部座席から引きずりおろされて、担架へ乗せられた。そして、気持ち悪くなり看護婦さんの持っていた容器に吐いてしまった。(それにしても、看護婦さんは用意がいいな〜。何故、僕が吐くって分かったんだろう?すごい!)・・・で、僕のスーツを抜がそうとして、スーツを引っ張りだした。『ビリッ!』僕の大事なスーツが破れる!!思わず『引っ張るな!!』って怒ってしまったのを覚えている。(看護婦さんは必死なのにスーツどころじゃないよね。死にそうなのに・・・すみません・・・。)
で、男の人(先生かな?)が来て、紙に名前と、住所、電話番号を書かされた。僕はボ〜となりながら、父親の名前と住所、電話番号を気力を振り絞って書いた。

ここから、12月25日まではほとんど記憶がない。たぶん、この後は気絶したと思われる。

11月23日〜12月24日

家族(息子さんが死にそうですと連絡を病院から受け岡山から東京へ駆付けて来た)や会社の皆には大変心配かけましたが、手術は夜中の1時30分頃無事終了!。夕方の5時頃から手術が始まったらしいので、合計約8時間の手術だった。始めて家族と面 会した時は右手と両足がベッドに括られていたらしい。脳出血の原因は先天性の脳動静脈奇形による脳内出血。後遺症として左半身麻痺が残った。

【手術→開頭手術/頭蓋骨を切り取って原因と結果を除去、そして切り取った骨をお腹の盲腸のあたりに体内保存。そして、頭の部分のはれがひいたらお腹に保存した骨をまた頭に戻すという想像を絶する手術!!!!!!】

術後のこの期間(23日〜12月24日)の記憶はほとんどない。会社の先輩達と仕事の話等を交わしたそうだが一切記憶にない。不思議だ・・・。母親が側で聞いていたが、何一つおかしいことなど言っていなかったらしい。精神科の薬を服用していたらしく、後で分かったのだが、その薬のせい?おかげ?で手術後の痛みも記憶にない。これは、良かったというべきだと思う。術後はかなりの激しい痛みがあったらしく、ベットを蹴飛ばして、『看護婦さ〜ん!痛い〜!!!』等と叫んでいたらしい。しかも、若い看護婦さんしか呼ばない・・・(恥ずかしい)。《激しく蹴って、ベットを1台破損したらしい・・・》1つ教訓として、方言は通 用しないので、標準語を話そうと思った。岡山弁では『つらい』ことを『えらい』という、看護婦さんは『偉い』と思ったらしく、僕が、『もう〜えらいよ〜!』と言っても理解してくれなかった。
僕が術後初めて書いた文字は、汚い字で『のどが乾いたよ〜うひょ〜』次に書いた字は『1000〜2000先着100名 お買い上げいただいた皆様に限り・・・』最後の方は読めない。意味不明??たぶん仕事のことを考えていたのだろう。
この期間、微かな記憶があるが、それは嚥下食(どろどろの食事)がまずくて食べれなかったことと、喉が余りにも乾いていて、飲料の許可がでて初めて飲んだポカリスエットがとても美味しかったことだけ。

12月25日 この日に、僕についていた管(くだ)が全てとれた!管のあった部分は鼻1本・左腕2本の計3本(術後は数10本いろんなところから管がでていたらしい)。そしたら、頭がスッキリしてきて、ボ〜とする眠気がなくなった。たぶん、精神科の薬のせいでボ〜としててこれまでの記憶がなかったと思う(この間、どんな感じだったのかすごく気になる〜ぅ)。あまりにうるさくて、他の看者さんに迷惑になると病室から処置室にひとり移され(監禁)朝病院に来た母親が居なくなっている!とビックリしたそうです。
そして、この日はクリスマスなので、慶應大学の学生がクリスマスの曲を演奏しに来てくれた。(感想は・・・ノーコメントです。)
12月26日

この日から本格的な(車椅子に乗ってリハビリセンターに行って)リハビリスタート!以前にもリハビリはベットサイドでしていたらしいのだが、記憶にない・・・。

12月31日

この日は、病院食は年越しそばだった。久しぶりに麺類にありつけた。おいしかった。

2001年1月1日 いよいよ2001年の幕開け!まさか病院で年を越すとは夢にも思っていなかった。
この日、看護助士の方がお節を作って持ってきてくれた(奉仕で)。病院食もお節だった。ちょっと、豪華だった。はっきり言って、この頃は、ろくに歩けもしないので、食べることが唯一の楽しみだった・・・。父親が僕のアパートの近所のスーパーでお菓子(懐かしいシガーフライ)を買ってきてくれた。それを、左手でもって食べようとするが、どうしても左手が口までいかない。悔しい!!何度も繰り返しているうちに10回目ぐらいにやっと成功!!この時は嬉しかった!それと同時に“食気”ってすごいなと思った(馬にニンジンと同じ?)。
1月18日

17日までほぼ毎日、朝9時頃からリハビリが続いた。初めに作業療法で次に理学療法。慶應では言語療法はしなかったが、看護婦さんからもらった顔の体操を暇があればしていた。いよいよ明日、地元の岡山県に帰省する日。しかし、興奮してかどうかはわからないが、この日の朝から調子が悪くて、嘔吐して最後のリハビリを休んでしまった。未だに原因不明・・・。

1月19日 約2ヶ月間お世話になった慶應大学病院とお別 れの日。
地元の岡山県倉敷市にある倉敷リハビリテーション病院に転院。慶應病院から車椅子ごと乗れるタクシーで東京駅に向かいました。このタクシーがまた気持ち悪い!乗り物(車椅子)に乗って乗り物(車)に乗ると二重に揺れるような感じがして・・・オエッ!吐きそうになった・・・。そして、東京駅に到着。東京駅から新幹線に乗って岡山県に帰りました。なんと、その時に乗ったのは新幹線の個室だ。個室なんかあったんだ。その時初めて知った。東京から岡山へ約3時間しかも下りなので座席が逆!個室って座席はひっくり返せない。これもちょっと気持ち悪かった!(^^ゞ
1月20日

倉敷リハビリテーション病院での最初のリハビリ開始!まずは理学療法から、早速、足の葬具をはめないで、歩行訓練開始。やっぱり、思うように左足の膝が立たない!慶應病院では、膝を支える装具をつけて歩行練習していたが、ここはいきなり何もつけずに歩行練習をおこなった。さすがにリハビリ専門の病院なので、リハビリに対してはとても厳しい!と思った。はっきりいって、歩くというより先生につかまって右足だけでケンケン状態であった。この時は、本当に歩けるようになるだろうかと、不安に思っていた。

1月21日〜
5月19日

退院の日(5月19日)まで日曜日・祝日以外毎日、PT(理学療法)・OT(作業療法)・ST(言語療法)の3つのリハビリをおこなった。主にPTは歩行練習が中心でOTは腕(指)の機能回復と生活するにあたっての不便さを克服していく練習をおこなった。そして、STは顔の左がどうしてもつるので、顔面 体操と撥音の練習と能力テストをおこなった。ちなみに、能力テスト(公務員試験の問題など)は難しくたぶん、手術してなくてもたぶんできないと思った。それと、文字の抜き出しテストをおこなった。文章の中から『あ行』と『な行』を抜き出したりした。基本的には、脳には問題はなかった。
そして、2月に入り外出許可がでたので、ちょくちょく外出許可をもらって病院からでるようになった。家に帰っては、パソコンの前に座ってインターネットに没頭!自分の病気やリハビリ方法に関しての情報をひたすら調べた。結構、あるものでビックリした。僕と同じ病気でリハビリに頑張っている人や片麻痺といかに付き合っていくかを追求しているページ等、かなりインターネットから情報をもらった。このインターネットの情報で自分の病気に対しての理解がやっとできたし、メールで友達や知り合いがたくさんできた。
【2月11日】病気後初めて家に帰った。かなり、嬉しかった!ただ、今までの体と違うので部屋の段差が高く見えた。
【4月8日】お花見に行った。この頃には、だいぶ歩けるようになっていた。が、それが自信につながり注意力がかなり低下していたと思う。そして、転倒!誰かが僕を呼んでいるような声が聞こえて振り返った拍子に麻痺側からこけて左腕が体の下敷きになって、手首骨折!幸いなことにきれいに折れていたので、全治1ヶ月。
【4月20日】 倉敷チボリ公園に車椅子で遊びに行った。ここは、バリアフリーではないので、車椅子にのっていると、道がガタガタしていてお尻が痛い!デンマークの首都コペンハーゲンのチボリ公園と提携して作った都市型テーマパークらしいが・・・。でも、身体障害者専用のトイレはあった。それと、車椅子の人と介助者は裏口から優先的に乗物に乗れるので助かった。ここは、障害者手帳があれば、本人と介助者1人が1000円で入場できる。
【5月5日】この日は、病気後初めての県外に遊びに行った。『とっとり花回廊』ここは車椅子でも十分遊べる施設でバリアフリーだった。回廊に上がるものエレベータもあり十分車椅子でも遊べる。でも、この時は、もう車椅子には乗っておらず、足には装具と手には杖を持ってヨチヨチ歩いて行った。
【5月19日】 退院日。長かった病院生活もこの日で終わり。これから、社会復帰に向けて、家庭リハビリ開始!

6月4日
この日に身体障害者手帳が交付された。等級は2級2種(左上肢3級 左下肢4級)だった。手帳と同時に、『障害者有料道路通 行料金割引証』ももらった。これは、高速道路を利用時に手張本人が指定の車で運転の場合、通 行料金が半額になる。
10月1日
社会復帰!!しました。待っていただいた会社には感謝の気持ちで一杯です。これから、自分なりに精一杯がんばっていきます。

10月9日

この日は朝から少し疲れていた。と言うのも、10月6日土曜日に慶応病院で初めてのリハビリをした。で、少し脳が疲れたような感じがしていた。そのことは会社の先輩に話をしていた。そして、仕事を終えて帰ろうとして、先輩のデスクについて『お先に失礼します』とパソコンに書き残して帰ろうといた時、バタ〜ン!!!フロアーに倒れてしまった!気付いたときには、慶応病院のベッドの上だった。
たぶん、久しぶりの仕事&通勤でストレスと緊張が重なり、初めての痙攣が起きたと思われる。先生曰く、今まで痙攣が起きなかったことが、不思議で、普通 脳の手術をすると大抵、痙攣発作が起きるものらしいです。

10月15日
2度目の退院日。皮肉にも僕の誕生日だった。右目の上は、青くなって少し腫れていて試合に負けたボクサー状態だった。
11月22日
この日で倒れてちょうど1年がたった。長かったような、短かったような・・・。でも、杖無しで歩けるようにまで、回復した!これからもどんどん回復していくような気がする。冒頭にも書いているが、回復の目標は自分自身が決めるものだと思っています。僕はまだまだ、回復すると信じてリハビリしていくつもりです。まだ、1年ですから。
12月31日
2001年も終わり。リハビリと復職の事で頭が一杯の年だった。
2002年は良い年になるかな〜・・・。(^○^)/

2002年
2月28日

年明けからこの日まではずぅ〜とリハビリに明け暮れていた。毎日、目標の歩数を掲げて万歩計をつけて近所を歩いていた。
この日は、東京完全撤退の日。会社の御行為で会社に席をおいてくれていて傷病手当をもらいながら、慶応病院にリハビリにずっと年明けから通 っていました。そして、この日に東京を完全に引き上げた。
そして、この日から、新宿区民から倉敷市民に移った。
3月31日 この日、会社とご縁がなくなりました。
大変お世話になりました。m(_ _)m 僕にとって、とても勉強になった会社で、できれば、復職したかったのですが、体には嘘をつくことはできませんでした。残念でなりません。これから、地元の岡山で第2弾復職に向けて頑張っていきます!!(^○^)/
7月28日

この日、脳出血で倒れてからインターネットやメールでいつもお世話になっていた荻野さんに 大阪で会うことができた。荻野さんが管理人をしている麻痺改善MLのオフ会があり、そこでお会いできた。僕が倒れてから、メールでいつも相談にのってもらっていたので、会えてとても嬉しかった。

8月12〜14日
京都旅行に行きました。映画村、鈴虫寺、二条城、知恩院、高台寺、清水寺、三十三間堂、本能寺、嵐山散策 等いろいろまわってきました!
生まれて初めて「鱧(はも)料理」を堪能してきました。京都の建物は、バリアフリーの「バ」の字もない建物ばかりで階段!坂!階段!でしたが、 結構困ることなく行けたので、足もかなり回復したと確信した。
しかも、足の装具はSLB装具ではなく、ファイナーという柔らかい素材の装具で歩きました。

2002年〜
  2003年

資格取得&就職活動(リハビリも兼ねて)に明け暮れていました。

それなりに充実した日々を送っていました。^_^;

2004年8月3日 今までアルバイトや契約社員で身体を慣らしてきましたが、この日、大手企業に障害者雇用で正社員で転職しました。

2005年10月23日

ついに僕もこの日、結婚を迎える事ができました。今までいろいろ苦労しましたが(これからもするでしょう…(^0^;)僕なりに精一杯頑張っていきたいと思ってます。