香川県の西部、俗に西讃とよばれる地方の片隅で生きるひとりの男がいた。
  名をキムラといった。
  キムラは岡山の高校を卒業して大阪の大学に進んだのち、1992年の春、晴れて某大手企業に就職する。
  新社会人としての意欲に、いちおう燃えるキムラ。
  しかし本社研修を終えた彼を待っていたのは、一枚の辞令だった。キムラは他の多くの同期生たちと同様に地方勤務を命じられ、四国・香川県にトバされ……いや赴任した。
  大都会大阪から、地方全開の西讃。
  そのギャップにキムラは戸惑った。
  ある夜、近所を歩いてたキムラは、田んぼから正体不明の羽虫がウワーンと大量に飛んでくる光景に出くわす。
「とんでもないところに来てしまった」
  キムラはあらためてショックを受けた。
  羽虫とうどん屋に囲まれながら、しかしキムラは精一杯働いた。
  知らない町で初めての仕事。
  彼も一所懸命だったのだ。


  そうして1年と3ヵ月が過ぎた。
  仕事にも慣れ、日々の生活にもだいぶ余裕が生まれてきたころだ。
  ある土曜日の午後、会社で仕事を片づけていたキムラを、ひとりの男が訪ねてきた。
「なんだか変な車が会社の前に……」
  取りついだ女性社員の表情に不安になるキムラだったが、表に出てみればなんのことはない、炎天下で待っていたのは高校時代からの友人だった。
  問題なのは、その友人が乗ってきた車だ。

「はあ……、これがMGってやつか」

  名だけは知っていたMGというイギリスの車を、キムラは初めてまのあたりにした。
  最近買ったばかりなんだ、と友人はとても得意げな笑みを浮かべた。
  その友人(つまりはまあ、ぼくなんだが)のヨタ話に耳を傾けながら、キムラは眼前にたたずむミジェットをジロジロと眺めた。
  ヴォゥヴァオヴォッヴォヴォヴォウオ…………。
  不規則にアイドリングしながら、ミジェットは幌を全開にしたまま真夏の陽ざしの下にたたずんでいる。

  小汚い。

  キムラは眉をしかめた。
  小汚いうえに、よく見ればクーラントがダラダラ漏れてアスファルトに大きなシミを作っている。
「古い車ねー、ふーん……」
  古びたオープンカーを前に、キムラは少しひいていた。



  それから数日。
  キムラはふと気がついた。
  自分の胸のうちに、なんだかモヤモヤとした思いがくすぶっていることに。
「なんだろう……この思いは」
  わけもわからぬままモヤモヤとした思いをもてあそぶキムラ。
  その思いはそれからまた数日後、本屋でなにげなく旧車の雑誌を手にした瞬間、決定的に燃え上がった。
  その雑誌のなかほどに、1枚の写真が掲載されていた。それを目にしたキムラの全身を稲妻が駆け抜けた。

  シ、シブイッ!!

  それは『いすゞベレット』という車の写真だった。
  正確にいえばイギリス輸出仕様のPR20型ベレットGT。さらにそれは、英国の名門ブラバムの手によって完璧なまでにチューニングされた、とびっきりスペシャルなベレットだったのである。


  ベレットが掲載されたその雑誌をキムラは購入し、初めてエロ本を買った中学生のごとく速攻で帰宅。部屋に入るやいなやバリバリと包みを開き、おめあてのページをめくった。
「カッコええ……」
  キムラの瞳はハート型に揺れていた。
  キムラとベレットの出会いは、このときが初めてではない。
  幼少のころ親に買ってもらった「じどうしゃ」という絵本が、キムラとベレットのそもそもの出逢いだったのである。
  その絵本、開いてみれば全ページベレットの写真という衝撃的な内容だった。
  「じどうしゃ」と銘打っておきながらベレットの写真しか載せないというのもどうかと思うが、ともかくこのとき、まだ純で無垢だったキムラの心にベレットの姿は深く刻み込まれた。
  いたいけな幼児にとって、これはじつに不幸なトラウマ……いや甘い憧れであった。
  このとき受けた心の傷……いや記憶が、20年以上の歳月を経て、ぼくのミジェットとブラバムチューンの激シブベレットというダブルパンチによって鮮やかに再生されたのである。
  エンスーな世界とはなんの縁もなく、ナイターで巨人が負ければそれで幸せ、という、つつましくも平穏な日々を送っていたキムラ。
  そのキムラの胸に小さな、しかし激しい欲望がフツフツと湧きあがり、その思いにあらがうことなく、彼は夜な夜なつぶやいた。

「ベレットがほしい……」

※このベレットはイメージであり、ブラバムチューンではありません

  キムラは本気だった。
  本気でベレットがほしいと思い、本気で(というか成りゆきで)エンスーな世界に飛び込もうと決心したのだ。
  キムラのこの決意を聞いたぼくは複雑な思いだった。
  エンスーな車に乗る、ということがどんなものなのか、それをミジェットでの体験を通じて知っているぼくは、キムラにこう助言した。
「いいんじゃない?  だいじょーぶダイジョーブ、買っちまえばあとはなんとかなるって!」
  ぼくはスキあらばキムラに甘い言葉を投げかけ、仲間に引き込もうと画策した。
  たとえば。
  雑誌で売り物のベレットを見つけると、それが埼玉県の店だろうが東北の個人売買だろうが、とりあえず電話でキムラに報告して「見るだけ見にいこうか」などとささやいてみたりする。
  たとえば。
  年賀状にはベレットのイラストを描き、「今年の目標、ベレットを買うこと」と一言添えてみたりする。
  この挑発的な営業活動に対し、キムラは「ま、そうだね、そのうちね、ハハハ……」と、つとめて落ち着いた反応を示した。ベレットを買う、という行動が意味することをいざ冷静に考えれば、キムラもやはり及び腰にならざるをえなかったのだ。
  程度のいいベレットを見つけては思わず銀行に走りたくなる衝動をグッと抑え、「いや待て、ここは冷静になるんだ……」と自らの心に理性という名のストッパーをかけていたのだった。
  恋焦がれつつ「好きだ」と告白することをためらうキムラ。
  もやもやと切ない日々がまたたくまに流れ、やがて1年が過ぎた。



  1994年。
  1月のある日曜日。
  ぼくとキムラは本屋で、車関係の雑誌を立ち読みしていた。
  中古車雑誌をなにげなく眺めていたぼくは、インデックスページに「ベレット」という文字が発見した。
  さっそくキムラに報告!
  掲載ページを探すと、そこには小さいもののカラー写真で、たしかにベレットの雄姿があった。しかもオレンジのボディにブラックのボンネットという『GTR』カラーである。
「おおっ……」
「うーむ」
「ほほう……」
  キムラはむさぼるようにそのベレットの写真と説明を見比べた。

  1969年式ベレットGT(GTR仕様)
      GTRのエンジン(G161W)搭載
      程度極上
      検受渡し

  「ただのGTだが、GTRのエンジンを積んでる」という点にキムラはひどく興味をひかれた。ベレット買うならGTR、と心に決めていたキムラにとって、それは胸躍るうたい文句だったのである。
  ベレットにはGTとGTRという2つのグレードがある。早い話、GTRはGTより高性能なグレードというわけで、GTがOHVエンジンを積んでいる一方、GTRにはDOHCのG161W型エンジンが搭載されている。
  中古車雑誌で発見したこのベレットは、GTでありながら、そのG161W型エンジンが搭載されているというのである。
  ただのGTにGTRのエンジンを載せ、カラーリングもGTRと同じにしているわけだから、いわばニセものだ。GTRレプリカである。しかし、やたら高額な値段で市場に出るGTRに比べて値段がかなり安い、という事実はキムラにとって大いに魅力的だった。
  そのベレットを売ってる店は広島県広島市にあった。
「とりあえず、見にいこか」
  ぼくはいつものように、甘い言葉を投げかけてみた。
  どうせまた「ま、ちょっと遠いし」などと冷静にかわされると思いきや、キムラはやや真剣な面持ちで黙り込んでいる。
「そ、そやな。とりあえず、ま、見るだけ見て……」
  キムラはヒキツリ笑顔でぼそぼそと答えた。
  話は決まった。
  次の日曜日、ぼくとキムラは山陽自動車道を広島へとひた走っていた。
  カモがネギしょって、というのはまさにこのことだと、いまふりかえれば思う。


  日曜日の昼下がり、ぼくとキムラは広島に到着した。
「ま、ベレットを見に行くんだからやっぱり……」
  などと強引な理由をつけてミジェットでやってきたものだから(むろん道中はフルオープン)、2人とも疲労困憊の半凍傷状態である。
  ヨレヨレのガクガクブルブルなぼくらは、なにはともあれベレットを売っているショップがどこにあるのか確認すべく、持参した中古車雑誌を開いてみた。
  そこには地図がいちおう載っていたが、それは地元の人間しかわからないようなシンプル極まりないもので、広島市内の地理にうとい我々にとってはナスカの地上絵でしかない。
  しかたなく、昼メシに立ち寄ったファミレスのウェイターに尋ねて道順をインプット。それを頼りにようやく見つけたそのショップの店先に、いきなりベレットはあった。
「おおっ、ほんまにベレットがある!」
  当たり前の事実に我々は感動した。約3時間の極寒高速走行と、ベレットを買うかもしれないという興奮で、ぼくもキムラも正常な思考能力を失いかけてたのだ。

「あああのベベベベレットみみみ見たいんですけどどどどどど」

  さっそく店に突撃するキムラ。
  はたしてそのベレットは、広告のコピー通り極上だった。ビッカビカに磨かれたボディ、ヘタレのない内装、そしてヘッドを赤く塗られたG161W型DOHCエンジン。「前のオーナーは毎日通勤に使ってた」(店の人談)とはにわかに信じられないほど、それはそれはグッドコンディションだったのだ。

  やったぜ!!
  これだ!!

  ベレットを見て数秒後、キムラはすでに理性を失っていた。
  つとめて冷静を装おうとするキムラだったが、しかしベレットを見つめるその目はイッており、憧れのベレットを目の前にしているという興奮度164%のオーラは隠しようもなかった。
  ピークは「エンジン、かけてみましょうか?」と店の人が言った次の瞬間におとずれた。シートに座って具合を確かめていた(ふりをしてイッてた)キムラは、「えっ、いいんですか?」なんて言いながら、しかしこの日最高の笑顔でキーを回したのだ。

  キュルル……ブボバワアアアン!!

  G161W型が吠えた!
  そしてキムラは「ワシもうダメ……」とメロメロの腰くだけになった。
「キムラはこのベレットを買うだろう」
  ぼくは確信した。「最初から購入を決意していたが、それを悟られないように必死で時間かせぎをしたつもりだった」とキムラはのちに語っているが、無駄なあがきというものである。

  10分後。

  周囲の期待を裏切ることなく、キムラは契約書にしっかりとハンコを押した。
  いま思えば悔やまれる行為だ。
  せめて試乗していればよかった。
  しかしこのときのキムラにそんなことに考えをめぐらせる心の余裕があるはずもなく、アドバイスすべきぼくもまた、ウハウハのイケイケ状態でいっしょになってキャーキャー騒いでたのだから、そんな冷静な判断を下せというのが無理な話というものだ。

これがG161W型エンジンさ!  写真ではわからないが、五十鈴川のせせらぎをイメージしたという「いすゞ」のマーク(このページの一番右上にあるもの)が刻印されている

  とにかく買ってしまった。
  1969年式いすゞベレットGT(GTR仕様)。
  頭金に20万円ブチ込み、残り100万円強を36回払い。納車は2週間後、直接広島まで取りにくることで決定。

  ああしかし……。

  その納車当日、試練はいきなりやってきた。


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