古い車というのは、たいていどこかにトラブルを抱えている。製造されて10年、20年、あるいは30年という歳月を走りつづけてきたのだから、当たり前といえば当たり前のことだろう。
  そのことはキムラもよく心得ていた。
  なんせ身近なところに、ぼくとミジェットといういい例があったのだから。
  壊れては直し、直してはまた壊れるというエンドレスな泥沼生活を送るぼくとミジェットを横目に、「なにやってんだか」と苦笑いしていたキムラ。しかし満を持して自ら購入したベレットもまた、期待を裏切らず納車当日からトラブルに見舞われた。


  いざベレットを買うと決心したとき、キムラに不安がなかったわけではない。
  旧車ゆえのトラブルは大なり小なり身にふりかかってくるだろうし、それなりの出費も覚悟しておかなければいけない。
「でも、君(ぼくのこと)とミジェットを見て、買ってしまえばなんとかなるもんだと思った」
  とキムラはいう。
  たしかにぼくとミジェットの関係は、ゴタゴタが続いてるわりにはうまくいっていた。
  それを目にして「なーんだ。壊れる壊れるとかいいながらも、けっこう乗り続けてられるもんやん」と思ったのだろう。
  しかし。
  走行中の激しい振動。
  調子がいまひとつのスターターモーター。
  ボンネットを開ければ、なぜかバッテリーは軽四用。
  走ってる最中に抜け落ちるキー。
  納車当日からベレットが繰り出すトラブル攻撃には容赦がなかった。
「ま、まあ、このぐらいは覚悟してたさハハハ……」
  ヒキツリ笑顔で正直に動揺が顔に出るキムラ。
  大丈夫なんだろうか、これでよかったんだろうか、と不安は募るばかりだったが、とにもかくにもキムラとベレットの共同生活ははじまった。
  そして。
  仕事漬けの1週間を耐えに耐え、やっとベレットとスウィートな時間が過ごせると胸高鳴らせた週末、オイル漏れが、発覚した。


  昼メロの純情幼妻のごとく次々と試練にさらされるキムラ。
  オイルはエンジンのオイルパンあたりから漏れているようだった。それもジワジワしみだしてくるようなつつましやかなものではなく、ボタッ、ボタッと初心者にもわかりやすい勢いで漏れていた。
  普通の人ならここでひいてしまうかもしれない。
  愛する人とやっと結ばれた瞬間──その鼻の穴から鼻水がタラーンと出る瞬間を目撃してしまったような、気まずくも心萎える光景だ。
  あるいは「なんやねん、この車!  買ったばっかりなのに!」と立腹するかもしれない。
  「どーなってんるんだね、そのへん!?」と経理課長風に詰め寄るかもしれない。
  「ちょっと聞いてよ奥さーん」と近所の主婦に言いふらすかもしれない。
  しかしキムラはちがった。
  誤解を恐れずにいえば普通ではなかった。
  キムラはベレットを愛していたのだ。
  キムラは鼻水を……いやオイルパンについたオイルを雑巾で拭き取った。その後、アスファルトにまだ浮いているオイルもせっせと取り除いた。
  よく晴れた日曜の朝、漏れたオイルの処理に汗しながら、キムラはふと顔を上げてみる。
  そこにはベレットがいる。
  あこがれのベレットが、いまそこでキムラがエンジンを始動するのを待っている。

「……こんなかっこいい車に乗れるんだから、多少のことには目をつぶろう」

  けなげだった。


  オイル漏れはその後も断続的に続いた。
  しかもオイル上がりを併発していることまで発覚した。
  加速するたびにいつもモワワ〜ンと白い煙を吐きだしていることにキムラは気がついてしまったのである。
  そう、それは漫画に描かれるボロ車そのものの姿だった。
  漏れるわ燃えるわで、ベレットのエンジンオイルはそれはそれはよく減った。考えたキムラはホームセンターでオイル缶を買い込み、それを常にトランクへ忍ばせた。
  出先でのオイルチェックが習慣になった。
  オイルが減ってるとわかれば、たとえそこがコンビニの駐車場でもボンネットを開け、トクトクとオイルを補充した。
  じつにエンスーな姿である。

  しかし。

  そんなキムラを震撼させる出来事が起きた。



  ある週末、キムラはいつものようにベレットを走らせていた。
  このときはぼくも助手席に同乗し、片田舎のワインディングを「がおーん、がおーん」とキムラの運転で走り回っていた。
  ひとしきり走りを満喫して、キムラは道路べりの広場にベレットを入れた。
「いやあー、いいねーベレット!  うーん、いやしかしまったくいい!」
  ジョージアの缶コーヒーを手に、キムラはご満悦だ。
  うんそうだね、とぼくもうなずきつつ、しばしベレット談義に花が咲く。
  ベレットがいかにイカす車であるかを笑顔で語るキムラ。
  走り去る車も少ない峠道の広場。時おり空の高みでトンビが鳴いている。
  キムラの手にあった缶コーヒーはいつしかオイル缶になり、慣れた手つきでボンネットを開け、オイルを注ぎ足していく。
  じつにエンスーな週末の午後だった。
  ところが。
  走行中の挙動について話していたときだ。
  ふとキムラが表情を曇らせて口を開いた。
「そういえば走ってるとき、なんかガタガタしない?」
  言われてみれば、たしかにそんな気がしないでもない。80km/hを過ぎてからのB-17爆撃機的振動は納車当日からの症状であり、ふたりともすっかり慣れていた(これもまた問題なんだが)。しかしどうも、それ以外の振動がどこからか伝わってくるようなのである。
「そういやなんかしてるよね、ガタガタ」
「だよね」
「……」
「……」
  
  ぼくらは手分けしてベレットの点検をはじめた。

  ふたりそろってメカ音痴なだけに、どうせ素人診断で原因がわかるもんではないだろうという思いは、ぼくもキムラも同じだった。
  しかし何もしないまま走り続けるには、ちょっとなんだか怖い症状である。
  走行中の振動だから駆動系に問題があるにちがいない、という前提のもと、ベレットの下部を中心に目を皿のようにしてチェックするキムラとぼく。
  タイヤのあたりをさわっていたキムラが、突然「あっ」と声を上げた。
「なななななに!?  なんか見つかった!?」
  あたふたと駆け寄るぼくに、キムラはある一点を指し示した。
  ホイールを留めているナットである。
  キムラがナットをひとつつかみ、グッと力を入れてみる。

  …………グルッ。

  オーノウッ!

「ま、回るやん!!!」
「う、うん、そうみたいだね……」
  キムラはまたもやヒキツリ笑顔になった。

  ホイールナットがゆるんでいたのである。

  つまり頑強に固定されているはずのホイールが、ほんの少しではあるがゆるんでいたのだ。
  そりゃーガタガタするはずである。

  だらだらとイヤな汗を流しながら「どーするどーする???」とぼくらはアタフタ君化した。
「このままではホイールが外れてしまう!」
  もし走っている最中にホイールが外れたら……。そんな想像にブルブルと震えながら、キムラはレンチを取り出し、せっせとホイールナットを締め直していった。
  ひとまず締まったホイールを前に、ぼくらはしばし立ちつくした。
  走行中にタイヤが外れ、コロコロと路肩へ転がっていく様子が脳裏からぬぐえない草の根エンスー二人組ではあったが、ここでボーッとホイールを眺めててもしょうがないので、とりあえずショップに持っていこうと話し合い、じわじわと発進する。
  少し走っては止め、ホイールナットを点検し、また少し走っては点検。
  短距離ならいざしらず、ちょっと長い距離を走ったあとにチェックすると、やはりナットはゆるんでいた。
「えーん、こわいよー」
  ついに泣き出した草の根へたれエンスーたちは電話ボックスに駆け込み、ショップに助けを求めた。
「ホイールナットっスか?  ゆるんでるんスか?」
「そうなんですそうなんです!  とにかくもーユルユルのガバガバなんです!」
  できればキャリアで迎えに来てほしいところだったが、あいにく出払ってしばらく帰ってこないという。
  アタフタ君なぼくらから冷静に症状を聞き出したショップの社長は、しばらく考えたのち、「とにかく自走してここまで来てみてください。話を聞くかぎりでは、タイヤが外れるようなことはないはずっスから」と提案してきた。
  しばし返答に悩むキムラ。しかしよく考えれば、今日のいままでさんざん走り回ってきてタイヤが外れたことは一度もないんだから、おそらくショップへ行くまでの数kmぐらいは大丈夫ではないかという結論に達した。
  ぼくらは再びベレットを発進させ、それはもう慎重に慎重を重ねてショップへと向かった。


  ホイールナットがなぜゆるんだのか。
  自ら点検したショップの社長が出した回答はこうだ。
「どうもボルトとナットのピッチが微妙にズレてるみたいっスね。だから走行中の振動で少しずつゆるんでいってるんでしょう」
  ガーン!
  そんなことってあり!?
  キムラはショックを隠せなかった。
  なぜピッチがズレるような事態になってしまったのか。残念ながらその結論は出なかった。
  また、根本的に解決するにはボルトの山を切り直さなくてはいけないようで、キムラの財政事情を考えると、それはいますぐには無理な相談だった。
「とりあえず走る前には必ず増し締めするようにしてください。それでしばらく乗り切るしかないっスね」



  その日から、キムラがおこなうベレット始動の儀式がひとつ増えた。
  ベレットに乗り込む前、オイルの残量を点検したキムラは、そのままレンチ片手に16ヶ所あるナットをひとつひとつ点検していくのである。
「オイルよし、ナットよし」
  いつもこうして指さし確認してから、キムラはベレットを路上に出した。
  じつに面倒くさい話、というか現代の車の基準からすれば「欠陥車」の烙印を押されても反論できない状況である。
  しかし時が経つにつれ、そんな事態ですら、キムラにとって大きな問題ではなくなっていった。
  当時、映画『メンフィス・ベル』がお気に入りだったキムラは、出撃前にB-17爆撃機を点検する兵士の姿に自らを重ね、「なんかいいかも……むふふ」などと悦に入ったのである。
  オイル残量確認と補充、そしてホイールナットの締め増し。
  それはキムラにとって、いつしか運転前のシアワセな儀式となっていった。


  休日になると、キムラは懲りずに……いや、心躍らせてベレットをどこかへ連れだした。
  例によってオイルとホイールナットのチェックを済ませ、G161W型エンジンに火を入れる。
  「ガヴォン!」と豪快にエンジンが目覚めると、イグニッションキーを抜いてセンターコンソールの小物スペースに放り込む。
  すっかり板についた動作だった。
  小物スペースにはハンドタオルが敷かれている。いつもそこに置かれるイグニッションキーのためにあつらえたものだった。
  ベレットとともに、キムラは街へ山へ海へと出かけた。あてもなく流すこともあれば、五色台や王越のあたりのワインディングにノーズを向けることもあった。
  ズングリしたボディを思いっきりロールさせ、往年のGTカーの本領発揮とばかりにベレットを解き放ち、その走りを存分にあじわい、路肩でホイールナットを点検し、再び走りだす。
  おぼえたてのヒール&トゥをおっかなびっくりでこなしつつ「ガーン!  ガーン!」とシフトダウン。
  トルクに乗ったままコーナーをじわじわと駆け抜け、出口が見えるやアクセルを踏み込む。
  ソレックスのキャブが唸り、加速されたエグゾーストノートが急速にオクターブを上げていく。


「あー、ベレット買ってよかった!」

  心の底からそう思うキムラだった。
  こうして草の根なエンスーライフを謳歌しつつも、しかしベレットは少しずつではあるが壊れていった。
  ウエザーストリップから雨漏りがはじまった。
  クラッチワイヤーが伸びてクラッチが切れなくなった。
  マフラーに穴があいた。
  振動が激しくなっていった。
  旧車の基本通りに、ベレットはトラブルを連発していったのである。
  しかしキムラは平気だった。
  どれも致命的なものではないのはコレ幸いと、さほど深刻に考えていなかったのかもしれない。
「ま、来年の車検のときにまとめて直そう」(※当時はまだ車齢10年以上の車は1年車検だった)
  そのひと言ですべてを一蹴し、次の瞬間にはまた「あー、ベレットええわー」と頬ずりをするキムラだった。
  細かなトラブルは続いたものの、キムラはキムラなりにベレットとの生活を楽しんでいた。
  いや、手間がかかればかかるほど、ベレットへの愛情はより深くなっていったのかもしれない。
  愛とは許すことなのだから。
  キムラとベレットの関係は決して平坦な道のりではなかったが、だんだんと軌道に乗りつつあった。

旧車イベントにも参加した。スタート前、嬉々としてベレットにゼッケンを貼るキムラ


  春、夏、秋とベレットとともに駆け抜け、やがてまた冬がやってきた。
  ベレットがキムラのもとへやってきて、まる1年が過ぎようとしていた。
  もうじきベレットの車検である。
  広島のショップに車検をお願いすることも少し考えたキムラだったが、ぼくを通じてすっかり顔なじみになった高松のショップのほうがなにかとよい、ということになり、車検整備の予約をした。

  そして車検の当日。

  いつもきれいにしてきたつもりでも、1年間走り続けたベレットはけっこう汚れていた。
「汚いままで車検に出したらメカニックに失礼だ」
  ショップへ行く途中、キムラはコイン洗車場へ立ち寄った。
  ずんぐりむっくりのボディに水と洗車シャンプーをかけ、スポンジでていねいに汚れを落としていく。くすんでいたボディにたちまち輝きが戻った。
  スポンジを手にせっせと動くキムラの顔が、オレンジ色のボディに映っている。
  やや歪んで映る自分の顔に、ふと手を止めるキムラ。
「ナンボぐらいかかるやろ……」
  車検のことを思うと、少し不安になった。
  この一年の間、ベレットはいろんなところが壊れた。いくつかは解決したが、その多くは現在進行形であり、今回の車検整備と同時に直すことにしている。費用はいったいいくらぐらいかかるのか。冬のボーナスが出たばかりではあったが、やはり不安は不安だ。
「でも……」
  すべては愛するベレットのためである。
  少々の出費は覚悟していた。

  洗車を終え、ほてった身体に冷えた缶コーヒーを流し込む。
  その視線の先には、すっかりきれいになったベレットが静かにたたずんでいる。
「あそこも直さないとな……。それからあそこも……」
  細かいトラブルの種も、これでひとまず一掃されるだろう。
  そう考えると、これからのベレットとの暮らしがますます楽しみになるキムラだった。
  満足げにコーヒーを飲み干したキムラは、ポケットからキーを取り出して駆けだした。
  冬の陽光をボディいっぱいに吸い込んだベレットがいた。



  土曜日の午後、やや空いた国道を高松のショップへ向かうキムラとベレット。
  例のドガガガ振動はあいかわらず続いていたが、それも車検のついでに直すことになっている。この日かぎりでサヨナラだ。

  がおーんがおがお。

  ショップに乗り込んだベレットを社長が出迎える。
「まいど。調子はどんなです?」
「いいですよ。最近は落ち着いてますね」
  キムラと社長は、車検と同時に直す箇所をあらためて確認した。細かな修理がほとんどだったが、ドガガガ振動はフロア下を走るプロペラシャフト周辺を手直しすることになるということだった。
「それじゃ、お願いしまあす」
  打ち合わせを終え、歩き出したキムラは、ふとふりかえった。
  サービス工場の前に、ベレットがうずくまっている。
  ちょうど1年前、広島のショップで出逢ったベレットの姿がオーバーラップした。
  1年経って、ちょっとだけヤレたベレット。
  でも今度会うときはすっかり健康になっているはずだ。
  車検から帰ってくる日が今から待ち遠しい。
  そんな思いを胸に、キムラはきびすを返して歩きはじめた。

  これがキムラの見た元気なベレットの最後の姿になった。



  翌日、会社で仕事をするキムラに電話が入った。
  ショップからだった。
「ちょっと来てもらえませんか……」
  メカニック氏の暗い声に、胸がざわついた。
「どうしたんですか?  ベレットになにか問題でも……」
「ええ、まあ……」
  メカニック氏は言葉を濁し、とにかく一度来てもらえませんか、と告げた。
  電話を切るやいなや、キムラは高松へ車を走らせた(ちなみに仕事中である)。
  高速を飛ばすキムラの脳裏に、ベレットの姿が何度もよぎる。

「もしかして……もしかして……」

  思い浮かぶのは悪い想像ばかりだ。
  ぬぐいきれない不安を胸に、キムラはアクセルを踏み込んだ。



  ベレットは工場の奥でリフトアップされていた。
  見たところなんの異状もない。
  胸をなでおろすキムラ。
  しかし。
  なにもないのにメカニック氏が暗い声で電話をかけてくるはずがない。
  そのメカニック氏が、リフトのそばでベレットを見上げている。
  キムラに気づいたメカニック氏は「どうも」と少し困ったような表情で会釈をしたのち、再びベレットを見上げた。
  視線を追ったキムラは、その先にある異様な光景に絶句した。


  …………腐ってる?


「シャシーがですね、腐ってるんです」
  メカニック氏がつぶやいた。

  キムラは背中から奈落の底へ落ちていった。

  腐ってる……………………

「だいぶ腐食が進んでまして……。このままだとエンジン、それに左フロントの足周りが落ちます」

  落ちる……………
  腐って落ちる……

「エンジンを支えてるエンジンメンバーがサビてるんですが、もうかなりイッてまして、腐ってるんです。グサグサに」

  グサグサ………………

  末期症状、という単語がよぎった。

「エンジンメンバーだけ交換できりゃいいんですけど、ベレットの場合、メンバーがシャシーと一体型になってるんですよ。板金屋で鉄板あてて直すことも検討したんですが、ここまで腐食が進んでたら無理だと言われまして……」

  手遅れ…………?

「直すにはシャシー交換しか……」

  シャシー交換。

  それがなにを意味するのか、キムラは考えてみた。
  シャシーを交換する。
  そのためには、腐ってないベレットのシャシーを見つけなければいけない。
  どこで?  どこにある?  そんなものがあるのか?
  まず不可能に近い。
  新車ならいざしらず、製造されてからすでに30年近くが経過した車である。
  傷みのないシャシーだけがどこかに転がっているはずもない。
  腐ってないシャシーを手に入れる。
  つまりそれは、もう1台ベレットを買う、という意味なのだ。
  ローンはまだ80万円ほど残っている。
  そのうえもう1台ベレットを買う。


  無理だ。


  力なく首を振るキムラ。
  この瞬間、ベレットの廃車が決まった。



  2年後──。

  キムラはベレットのローンを払い終えた。
  手元にない、もう二度と乗ることができない車にひたすらお金を払い続けた2年間だった。

  思いを残したまま逝ってしまったベレット。
  その影を、キムラはしばらく追った。
  旧車雑誌を開けば、売り買い欄についついベレットを探していた。
  程度がよくてこなれた値段のベレットがあれば、胸がきしんだ。
  たまりかねて中古車雑誌を手に、ベレットを見るため高知まで足を運んだこともあった。

  しかし、ベレットに乗ることは二度となかった。



「いま思うと、あれは非常に密度が濃い一年だった」
  ベレットと過ごした日々を、キムラはふりかえる。
「いろんなことを勉強したし、いろんな人とも知り合えた」
「就職して、知らない町で暮らして、ちょっと余裕が出てきて、毎日の生活がつまらなくなりかけていた時期に、とてもエキサイティングな経験ができたと思う」
「借金もたくさんできたけどね」

  いま、キムラはごく普通の国産車(新車で購入)に乗っている。エアコン、パワステ、パワーウィンドウ、ATのフル装備である。
  スロットローディングにCDを滑り込ませれば、音量を絞っていてもバラードが心地よく耳に届いてくる。
  キーが落ちるほどの振動もない。
  オイルも漏れない。
  ホイールナットが勝手にゆるむこともない。

  そして、心高鳴ることもない。



  いすゞベレット1600GT。
  通称「ベレG」。
  なかば衝動的に手にいれ、乗り、壊れ、直し、そしてある日突然去っていったこの車のことを、いまもキムラは懐かしく思い出す。
「ベレット──それは青春のまほろばだった」(久米明の声で)

あとがき



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