7.22.mon
「マツダ復活の道」というドキュメンタリーを観た。マツダとはもちろん自動車メーカーのマツダだ。バブル崩壊後に経営が破綻し、フォードの傘下に入ったマツダが黒字転換を果たすまでの6年間を追ったドキュメンタリーなのだけど、実際の内容は「ロータリーエンジン復活の道」と呼べるものだった。
思いがけずテレビに映し出されたこのドキュメンタリーに、眠りかけていたぼくの目はブラウン管に釘づけとなり、番組が終了する頃には激しく感動していた。日曜の深夜(正しくは月曜の午前0時24分〜午前1時25分)に、ぼくはテレビの前で感動にうち震えていたのだ。
熱い! なんて熱いんだ! 熱すぎるよあなたたち!
マツダの没落と再生の過程で、ロータリーエンジンが存続の危機にあったのは知っていた。それがRX-7の事実上の後継車、RX-8のユニットとして搭載されるのも知っていた。しかしその背後に、かくも熱きドラマがあったとは知らなかった。
消滅寸前だったロータリーエンジンの再生に全身全霊を投げうった、マツダの技術者集団。その苦難に満ちた道のりを追ったこの番組、内容的はプロジェクトXそのもので、ナレーションや構成もそれを意識した作りではあった。番組終了間際、おだやかなフィナーレを迎える頃には「ヘッドラ〜イト テ〜ルラ〜イト」というフレーズが自然と脳裏をよぎったものだ。しかしそんなことよりも、ぼくはブラウン管に映し出される男たちの生き様に、熱く激しく胸を打たれてしまったのだ。
多くの困難に立ち向かい、不可能とも思える目標に向かい、我を忘れて打ち込む日々。その先に待っていたのは全身を満たす充足感と、大きな足跡。「なにかを成し遂げた」という達成感を胸に、彼らはきっと誇り高き人になれたのだなと思うと、なにやらとてもうらやましく感じられてきた。「うー、おれもなにかを成し遂げたいぞ!」と真夜中にひとりジタバタあがきつつ、大きなパワーをその番組からもらったような気がした。ありがとう、広島ホームテレビ。
ご覧になっていない方のために、番組のあらすじを書いてみました。あくまでダイジェストではありますが、男たちの熱いドラマの片鱗を感じとっていただければ幸いです。
1996年──。フォード傘下に入ったマツダは、破綻した経営と組織の再生に乗り出していた。1980年代後期から90年代初頭、いわゆるバブル経済期において、マツダはユーノス、アンフィニ、オートザム、オートラマと販売ブランドをいくつも立ち上げ、車種を大幅に拡大するなど、まさにバブルの波頭で浮き足立っていた。そのツケはあまりに大きく、車種縮小、工場閉鎖、人員削減、コスト見直しなど課題は山積していた。
そんななか、マツダの技術の象徴であるロータリーエンジンもまた、吹き荒れるリストラに風前の灯火だった。
太平洋戦争後、焼け野原の広島で小さな三輪車メーカーとして再出発したマツダ。その発展の糧となったのは、ロータリーエンジンだった(この経緯はNHKのプロジェクトX「ロータリー四十七士」で紹介された)。一時期はマツダの象徴であった“夢のエンジン”ロータリー。しかし開発の難しさ、大衆車への普及の遅れなど諸問題を解決できないまま時は過ぎ、搭載車は次々と姿を消し、いまではスポーツカーRX-7に搭載されるのみとなってしまった。そこへ下された「次期RX-7の開発はない」という首脳陣の決定。「現在のマツダはスポーツカーという限定された市場に力を入れるべきではない」との考えからだった。
RX-7の消滅。それはすなわちロータリーエンジンの消滅をも意味していた。「ロータリーエンジンはマツダの魂。絶対に消してはいけない」と考えたマツダ/ロータリーエンジン実験棟の技術者たちは、ある試作車をガレージの片隅で秘かに造りはじめた。予算はない。会社からの支援もない。ベース車は、スクラップ寸前だったロードスターだった。本来積まれていたレシプロエンジンは降ろされ、代わりに搭載されたのは研究途上の次期ロータリーエンジンだった。
幾度かの試験走行の結果、ひとつの手応えを感じた技術者たちは、試作車をマツダのテストコースに持ち込んだ。市販予定の試作車たちが次々とテスト走行をおこなったその最後に、ロータリー試作車はひっそりとコースインした。ガムテープやパテでなんとか形だけ保ったオンボロのロードスター。唯一にして最後のチャンス。ここで結果が出なければ、ロータリーエンジンの未来は消える。
試作車の運転席に収まったのは、かつてレーシングドライバーであり、当時マツダの商品開発部門で本部長を務めていたマーティン・リーチ氏。三次のテストコースで、マーティン・リーチ氏はロータリーエンジンを積んだロードスターをドライブした。気に入らなければ1周で車を降りてしまうマーティン・リーチ氏が、3周走った。手応えはあった。ロータリーエンジンは、かろうじてその命をつないだ。
しかし依然として未来は闇の中だった。すでに経営権と商品計画決定権をフォードに譲渡したマツダ。フォードの重鎮たちの頭に、ロータリーエンジンを搭載する新しい市販車の計画はなかった。ロータリーエンジンを積んだ市販車を世に出すためには、首脳陣にロータリーエンジンの存在意義を認めさせなくてはいけない。
ロータリーエンジンはレシプロエンジンに比べ軽量小型でハイパワーを得られるという利点がある一方、燃費が極端に悪いという致命的欠点を抱えていた。この欠点を克服しなければ、とてもではないが首脳陣を納得させることはできなかった。
目標は決まった。技術者たちの、プライドをかけての研究開発がはじまった。
しかし情熱とはうらはらに、開発は遅々として進まなかった。燃費を向上させるきっかけすら見つけられずにいた。会社が提示したタイムリミットまで1週間。もはや道は閉ざされたも同然だった。
そんなとき、試験後にエンジンを洗浄していたメカニックが、ふとしたアイディアを思いつく。チーム全員がそのアイディアを推した。チームは広島県北の小さな工場へ飛んだ。ロータリーエンジン開発の部品請負をする町工場だった。
「この部品を造ってくれ。納期は20時間後。遅れるとテストに間に合わない。ロータリーは死滅する」
図面すらない。手渡されたのは、ノートの端に殴り書きされたメモとイラスト図。与えられた時間もほとんどない。普通に考えれば無理な注文だった。しかし工場長もまた、誇り高き技術屋だった。
部品は納期通りに完成した。さっそくエンジンに組み込まれた。チーム全員が見守るなか、試作ロータリーエンジンに火が入った。思わず歓声が上がった。燃焼効率が一気に40%も向上した。新生ロータリーエンジン誕生の瞬間だった。
しかし壁はまだ残っていた。生まれ変わったロータリーエンジンに対して、首脳陣は依然として懐疑的だった。次期市販車を討議、決定する年に一度の会議。ロータリーエンジン搭載車のプランは却下された。ロータリーエンジンが生き残る道は、再び閉ざされた。
そのとき、ひとりの男が動いた。数年前、三次のテストコースでオンボロの試作車を試乗したマーティン・リーチ氏だった。リーチ氏は、いまや欧州フォード社長という地位にあった。見すぼらしいが、すばらしいパフォーマンスをもったあの試作車に、リーチ氏はロータリーエンジンの未来を見いだしていた。さっそくヨーロッパのフォード首脳陣のもとへ飛ぶリーチ氏。策はなかった。しかしやるべきことは理解していた。ヨーロッパからアメリカへ飛行機で移動中の首脳陣に張りつき、リーチ氏は説得を試みた。飛行機がアメリカの地に降り立つ直前、両者は固く握手を交わしていた。
すでにレシプロエンジン搭載で開発がスタートしていた新型車の企画開発室に、上層部から計画変更の連絡が入った。
「この車のエンジンはロータリーでやってくれ」
寝耳に水の知らせに誰もが半信半疑だった。マツダ全社に社内メールが飛び交った。件名は「ロータリー復活」。
それから数年──。
2001年秋、東京モーターショーのマツダブースで、一台の車を覆っていたベールが観衆の眼前で取り払われた。現れたのは黄色いスポーツカーだった。「RX-8」と名づけられていた。
壇上にのぼったマツダ社長は、誇らしげに語った。
「ようやくみなさんにお見せすることができました。我々はこの車の市販を決定しました。ロータリーエンジンはマツダの遺産です。と同時に、マツダの未来そのものでもあるのです」
一度はロータリーエンジンを見限った首脳陣の口から発せられたこの言葉を、技術者たちはどんな思いで聞いたのか。
うららかな春の陽気につつまれた三次のテストコース。6年前、オンボロのロードスター改試作車が走ったコースだ。あの時、リーチ氏が操る試作車を固唾をのんで見守っていた技術者たちが、いままたここにいた。
森の中からロータリー独特の甲高いエグゾーストノートが近づいてくる。黄色いRX-8の姿が視界に飛び込み、風のように走り抜けた。それを見送る技術者たちの顔には、あたたかな笑みがあった。
※ロータリーエンジンとマツダ
燃料爆発によるピストンの上下運動を回転運動に変換するレシプロエンジンに対し、まゆ型の燃焼室内でおむすび型のロータリーを燃料爆発により回転させて回転運動を発生させるエンジン。アイディア自体は19世紀末に登場。その後1959年、西ドイツ(当時)のフェリックス・バンケル博士によって、俗にいうバンケル型ロータリーエンジンの試作、作動に成功。小型軽量ながら高出力を発するロータリーエンジンは、内燃機関の新たなる希望として注目される。さっそく世界中の自動車メーカーが技術提携を申し出たが、開発の困難さ、実用性の低さ、数々の構造的欠点など諸問題が噴出し、メーカーは開発から次々と手を引いていった。
最後に残ったのは極東の小規模メーカー、東洋工業(現マツダ)。マツダはロータリーエンジンの開発に社運を賭け、その高い技術力と執念によりロータリーエンジンの改善と実用化に挑戦。市販車に次々と搭載し、世界で唯一のロータリーエンジン開発/生産/実用化メーカーとなる。1991年にはロータリーエンジン搭載車で、ル・マン24時間耐久レース優勝の栄光に輝く。
ロータリーエンジンはいまだ未成熟で、数々の課題を抱えている。2002年現在、ロータリーエンジンはマツダRX-7に搭載されるのみだが、2003年春に発売されるRX-8への搭載が正式に決定している。 |