Szene-Zwei.

「…少し…よいか?」
「はい? どうかなさいましたか?」

 朝食の片付けを手伝っていたマージは,かけられた声に少々驚きながらも努めて平常を装いながらそちらへ振り返った。
 声をかけられた事が,では勿論,ない。
 その相手の声故に,である。

 かつてを知る身にすれば,ついぞ覚えのないその声音〔こわね〕。
 よく言えば穏やかな,だが,むしろ弱々しさをも感じさせるような声は,その姿が目の前になければ到底信じられるものではない。
 強大な力をその身に宿す,大地を司どる古の精霊の言葉であろうとは。

「いや…その……な……」
「?」

 一度口を開きかけて,なお言いよどむ様〔さま〕は奇異〔きい〕ですらある。

 二度,三度と口を開きかけながら,ようやく紡ぎ出されたその言葉が,本来意図されたものではないのであろう事は,マージにも直感できた。
「あぁ,すまぬ。仕事の途中であったな」

 どう応ずるべきか。
 もともと言葉の裏を読んだりするようなことに長けていないという自覚はある。
 それに,かつての主に対してあまり非礼な振る舞いもできない。
 ならば,ありのままの自分で対する他はない。
 そもそも,敵意も悪意もありはしないのだから。

「いえ,構いませんよ〜。それで,どんな御用ですか,ミラルカ様?」


 十数年前のあの日まで,自らの配下として長い年月を経ていながら,しかし,一度たりとも目にした事のない笑顔で,一度たりとも耳にした事のない声で,問い掛けてくるマージがいる。
 何故なのだろう。
 その姿を目にするだけで,言葉が封じられてしまったかのような,今の自分は……。


 沈黙に支配されたかの様なこの場所にいたのが,二人だけではなかったという事は,ある意味で幸いであったのだろう。

「マージちゃん?」

 片付けの手伝いをしてくれるはずのマージがミラルカの相手をしている事自体には何の問題もないのだが,仕事に滞りが出るとなればそれはまた別の話である。
 ちょうど会話も途切れているようだし……。
 つまりは,別段,言葉に詰まったミラルカへの助け船というわけではなく,どちらかと言えば朝食の片付けと言う現実上の理由が強かったのだが,それを微塵も感じさせないあたり,この館でフィンに適〔かな〕う者がいない理由の一つである。

「まぁまぁ,どうかなさいましたか?」

「あ,フィンさん」

 どうすればよいのか,その一瞬で充分な思考を巡らせる事ができたわけではない。
 何故と問われても,誰よりも自分自身が分からない。

「持っていくのは,これで良いのか?」

 食堂の大きなダイニングテーブルの上,先ほど終わった朝食に使われた器がまとめられている。
 言いながらミラルカはそのうちの一つに手を伸ばしていた。

「ミラルカ様っ!?」
「ええ,それですわ」

 言外に「それだけではなく他のも持っていってくださいな」との意を含めるほどに落ち着いているフィンとは対象的に,マージは驚きの余りに狼の耳が姿を表している。

「マージちゃん,お耳が出てますわよ」

 慌てて深呼吸をして耳を元通りに直すと,マージはパタパタとミラルカの元に駆け寄った。

「そ,そんな,ミラルカ様にそんなことをして頂くわけには…」

 手早く何枚かの皿を積み重ねる。

 勿論,他意はない。
 マージにしてみれば,ミラルカはかつての主人であり,今は自分の身よりも大切なご主人様(糾)の伴侶である。…正直を言えば,認めるには寂しいものがあるが。
 そのような相手に食事の片付けを手伝わせるという発想は,マージの思考の中には存在していなかった。

 であるから,『早く片付けを終わらせてしまって,ゆっくりミラルカ様のお相手をしよう』と考え,その分動きがいつもより素早いものになったのは,まぁ,マージらしいと言えばらしいのだが……素すぎた。と,結果から言えばそうなる。
 その勢いで器にいくらか残っていたスープが飛んだのをどうにかしようとあせった結果,皿のうちの三枚ほどが手から滑り落ちてしまった。

「きゃぁっ!!」
「!!」

 ・
 ・
 ・
 ・

 陶器が割れる音は……しなかった。

 バランスを崩した分は,マージ自身がなんとかリカバー。
 滑り落ちた分の二枚は,フィンが両手に一枚ずつ。
 残る1枚は,ミラルカが床に落ちる寸前でキャッチしていた。

「まぁまぁ,マージちゃん。大丈夫?」

 ……とは言い難かった。

 皿はなんとか救ったものの,手元に残った分を抱え込むような形になってしまったために,胸元が汚れてしまっている。

「あぅぅぅ〜」
「マージちゃん,ここはいいから着替えていらっしゃいな」

「え?でも…」
「汚れたままでは気持ち悪かろう。早く着替えた方が良いぞ」
「あ……」

 正直なところを言えば,まさかミラルカからそんなことを言われるとはマージは一切予想もしていなかった。
 が,さすがに意識の切り換えは早い。
「じゃ,じゃぁ,これだけ運んでおきます〜!」
 言いながら厨房へ駆け込むと,器を流しへ置くや否や踵〔きびす〕を返す。

「すぐ戻りますから!」

 文字どおり,その声だけを残してマージは食堂を後にした。
 手加減抜きの全力疾走になびいた銀髪のきらめきを残して。



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