vol.00 プロローグ


  1992年1月。
  この時期にしてはわりとあたたかいものの、吹く風はやっぱり肌にしみる、しみじみと冷えた冬の夜だった。
  市街地にほど近い場所に、一軒のレンタカー店がある。オレンジベースの看板に「MAZDA」とメーカーの名が掲げられている。その薄暗い駐車場にぼくはいた。
  ついいましがた閉店時間を過ぎたところだった。看板の照明はもうすでに消され、駐車場に並べられた10台ほどの車を、事務所の窓からもれる明かりがただぼんやりと浮かび上がらせている。
  窓越しのそんな眺めから、目の前のメーターパネルに、ぼくは視線を移した。
  エンジンを始動させてまだ3分と経ってないはずだが、水温計の針はもう十分に立ち上がっている。ヒーターを入れると、足元がじんわりとあたたまってきた。
  コンコン、とドライバーズシート横のウィンドウがノックされた。ウィンドウの向こうで、若い男の店員が書類を手にコクピットをのぞきこんでいた。寒さに肩をすくませている。パワーウィンドウのスイッチを探そうとするその前に、店員は声を張り上げた。
「それではあさっての閉店時間までにご返却ください。8時です、夜の8時」
  ぼくがうなずくのを見届けるや、店員はそそくさと事務所に戻っていった。
  その姿をミラーでちらりと確認しながら、クラッチペダルを一番奥まで踏み込んでみた。足の力をゆるめると、ペダルはグンッと元気よく跳ね返ってきた。そのペダルをもう一度奥まで踏み込み、ごく短いストロークのシフトノブを1速へと入れる。跳ね返ろうとするクラッチペダルの負荷を左足で調整しつつ、ぼくは車を薄暗い駐車場から歩道へゆっくりと進めた。
  ほの明るい街灯に、ユーノス・ロードスターの姿が照らしだされた。
  ゆるやかにうねる銀色のボンネットに、街の明かりが歪んで映りこんでいる。ライトスイッチをひねると、その長く延びたボンネット先端から、リトラクタブル式のヘッドライトが、かすかなモーター音とともに2つ飛び出た。
  クルマの流れが途絶えたところで、ロードスターは小さな段差をトトン、と越え、路上に出た。黒い幌は、かたく閉ざされたままだ。
  言い忘れましたが、このあたりの文章は森本レオの声を想像しながら読んでいただくと、よりいっそう楽しんでいただけると思います。





  午後8時を過ぎたばかりだというのに、対向2車線の県道に交通量はほとんどなかった。
  街灯もまばらなその道をしばらく進んだのち、ぼくはハザードを点けてロードスターを路肩に止めた。
  ドアを開け放った瞬間、ヒーターが効いた車内に、冷えた大気がどっと押し寄せてきた。
  クルマのすぐそばに立ち、黒光りする幌に手を置いてみる。なめらかな質感をもったキャンバス地の幌はしっとりと冷えていた。
  ついさっきレンタカー店で教えられたとおりの手順で、ぼくは幌を開けていった。
  ビニール製の後部窓をジッパーで開き、フロントウィンドウ上部にある2カ所のフックを外す。たったこれだけの作業で幌は「パクン」と半開きになり、あとはシートの後ろに向けてグイグイと押すだけで、幌はバタバタと畳まれていった。
  ほんの1分ほどで、目の前にオープンカーが現れた。
  あるはずの屋根や窓がない、たったそれだけのことが、こんなにも印象を変えてしまうものなのか。
  スパンと切り落とされたように、ウエストラインから上がない。ステアリングもダッシュボードも、そしてついさっきまで座っていたシートも、なにもかもが無防備に露出されている。黒ずくめのコクピットを街灯が鈍く照らし出し、シートの上に街路樹の影をいくつか落としていた。
  ロードスターのまわりをゆっくりと一周してから、ぼくはふたたびシートに腰を下ろした。しかしドアを閉めたところで、あいかわらずぼくは「外」の世界にいた。ヒーターが効いた快適な空間はもうそこにはなく、四方八方から冷たい夜風が吹き抜けていく。
  タバコに火を点けると、煙は風にあおられて、あっというまに夜空にかき消えていった。



  正月が明けて、もう1週間以上たっていた。華やいだ正月飾りがそろそろ空々しく感じられる頃だ。平日の夜ということもあり、街はどこか気が抜けたようだった。飲み屋が集まる繁華街に面した道路にも人の姿は少なく、客待ちのタクシーの列を、ネオンだけがにぎやかに照らしだしていた。
  停滞した街の中を、ロードスターは幌を開け放って走り抜けていった。
  信号が赤に変わった。ロードスターは数台のクルマの列の先頭に止まった。横断歩道を渡る人々がチラチラとこちらをのぞき見た。
  ふたたび青に変わった瞬間、ぼくはアクセルを深く踏み込んでみた。
  カプセルに入って移動するようなスルスルという普通の乗車感覚は遠く吹きとばされ、「ドドド……」と地を蹴って突き進んでいくダイレクトな加速感が襲いかかってきた。


  フロントウィンドウを駆け上がってきた冷気が頭上をかすめ、一瞬ののちには彼方へと振り落とされる。
  耳のそばで風が渦巻き、ゴオゴオと低く音を立てる。
  薄い上着を貫いて寒風が肌を突き刺す。
  襟元から侵入してくる空気が、服の下に閉じこめられていた熱を奪っていく。
  ステアリングを握る腕に鳥肌がたつ。
  耳が冷たくてヒリヒリ痛い。
  鼻の頭も真っ赤だろう。
  たまらずヒーターを全開にする。
  ゴーッという温風が吹き出す音が耳を突く。足元はたちまちあたためられたが、その温風はヒザのあたりで冷気とぶつかり、コクピットから強制的に夜空へと吸い上げられていった。

  ビルの黒いシルエットが視界の片隅で絞り込まれるように後方へ流れ去っていく。
  ネオンが溶けていく。
  ダッシュボードに、そして助手席に、街のさまざまな影が落ちている。街路樹、信号機、電信柱。流れ去りながらも一定の方向に延びていたそれらの影は、ロードスターが減速すると、そのスピードに同調して動きをゆるめ、ステアリングを切り込むと同時に一斉に回転していく。


  寒い……
  信号待ちの人がこっちを見……
  髪がボサボサに……
  指先が寒さで……
  空に月……
  焼き鳥の匂いが……
  誰かの笑い声……


  右を向いても左を向いても、仰いでみてもふりかえっても、そこにはなにもない。冷たい冬の夜の大気と完全に直結したコクピットで、ぼくの五感はありとあらゆる刺激の直撃にさらされていた。


  オープンカーと、それ以外の車。
  その差は幌を開けた瞬間、歴然としたものになるのだと、ぼくはこの夜、身体全体で思い知った。
  思い知ると同時に、ぼくはさらにアクセルを踏み込んでいた。
  あの角を曲がればアパートへ。でも迷うまもなく、ロードスターのノーズは夜のワインディングへまっすぐ向いていた。
  容赦なく飛び込んでくる冷気に身体はすっかり冷えていたけど、紅潮した頬とコメカミのあたりがジンと熱い。その心地よい火照りに気をよくし、さらにアクセルを踏み込んでいく。
  加速していくその先に、小さな古びたオープンカーとの暮らしが待っているとは知るはずもない、このとき22歳の冬だった。


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