vol.05 押し寄せる洗礼


  そう──
  あれは友人を助手席に乗せ、ミジェットで走っていたときのことだ。
  1994年、春。
  郷里の岡山へ休みを利用して帰っていたとき、その“ちょっとした”事件は起きた。
  曇り空で風がすこし肌寒かった。友人がオープンカーに不慣れであることもあって、ぼくとしてはめずらしく幌を閉めて走っていた。
  走りはじめてしばらく──30分ぐらい経った頃だろうか。
  ふいに友人が「あのさ……」と、なにやら言いにくそうに切りだした。

「この車、中で何か死んでない?」

  それはあまりに唐突で、あまりに聞き捨てならない言葉だった。
「いや、死んでるっていうか、その……」
  狭いミジェットの車内を、友人はいぶかしげに見渡した。
「なんかね、腐ってるような……」
  く、腐ってる!?
「つまり、くさいんだよ」
  くさい……。
「なんかねえ、におうんだよ、さっきから。くさいんだよ、この車」

  シッケーな!

  そりゃーたしかにミジェットは古い。
  古いさ、あー古い!  ボロいさ!
  なんかこう独特の匂いっつーか、カビっぽいっつーか、なんかにおうさ!  造られてから20年近く経ってんだから、においのひとつやふたつぐらいあるさ!
  それにしたって「くさい」ってキミ!

  しかし、たしかにくさかった。

  煙草のせいで鼻がよくきかないものの、クンクンと小鼻を開いてみると、たしかにこう、なにか「ツン」とした刺激臭のたぐいが車内に漂っている。
「……くさいな」
「だろ?  だろ?」
「なんのにおいだろう……」
「だからー、なんか死んでるんじゃないかって……」
  いやちがう。これは死臭ではない。根拠はないがオトコの勘ってやつである。
  なにかが死んでにおっているのではない。
  ではいったい……?
  鼻孔をツンツンと刺激するこの異臭の正体は……。

「あっ」

  友人がハタと叫んだ。見れば、その手にはヒザ掛けが握られている。寒い時期のオープンカーには欠かせないアイテムであり、ミジェットの車内にいつも常備しているものだ。
「これ、くっせーよ!」
  なにをぅ!?  ヒザ掛けがくさいだと?
  ぼくは友人からヒザ掛けを渡された、というかグイと押しつけられた。
  どれどれ……。


  むおおおお!  めっちゃくさい!!

  
  おまえやったんか、くさいのは!!
  異臭を放っていたのはヒザ掛けだった。意外な伏兵の登場にやや狼狽しつつ、
「しかしなにゆえヒザ掛けがこのようにくさい存在と化してしまったのだ?」
  という素朴な疑問が駆けめぐった。
  買ってから一度も洗ってないから?  ひょっとして体臭?
  ぼくは友人からヒザ掛けを受け取り──というか押しつけられたのだが──なにか異状がないかあらためてみた。
  
  む?
  濡れてる。

  …………。

  ハッ!

  その瞬間ぼくの脳裏に、当日の朝ミジェットを実家のガレージから出すとき目にしたものが、コマ落としのフィルムのようにフラッシュバックした。

  ホワホワワ〜ン(回想シーン、スタート)


  さあ〜ってと、ミジェットに乗ろうかぬぁーっと(桂小枝調)。
  おっ?  いかんいかん、幌を開けたままにしてたわい。
  ややや?  ボンネットに点々とつくこの白いものは……ネコの足跡?
  むう。肉球はかわいいものの、しかし泥だらけの足でボンネットの上をわざわざ歩かんでもよかろうに。
  ぬお?  車内にも足跡が!  やつめミジェットの中でくつろぎおったな。
  まあしかたない。泥をタオルで拭いて……っと。
  さあ〜って、出撃しようかぬぁーっと!(桂小枝調)


  ホワホワワ〜ン(回想シーン、終了)


  うぉぉぉぉぉぉぉぉネコめ!!
  ミジェットの中でオシッコしやがった!!


  ドライブ途中ではあったが、ぼくはその場でUターンして速攻で帰宅した。
  ヒザ掛けを水道水でジャブジャブと洗い流し、シート周りを雑巾でワッセワッセと拭き取って、ホームセンターで購入した消臭スプレー(森の香り)を2分36秒ほど連続噴射した。
  しかし無駄だった。
  ネコのオシッコ臭は、これぐらいの攻撃ではビクともしなかったのである。それは恐るべき堅牢さでヒザ掛け、および車内のカーペットにしみついていたのだ。たとえるなら白いシャツに飛び散ったカレーうどんの汁。こういうのってなかなか消えないよね、フッ……(遠い目)。
  
  しばらくの間、ミジェットの助手席は乗り人知らずとなった。
  ま、オシッコのにおいがする車なんか、だれも乗りたがらんわな。
  ぼくは乗るんだけど。
  
  くそ〜。

ペットボトルはネコよけにはならない、ということを知った


  まあしかし。
  このように野生動物とのふれあいエピソードをまじえつつも、ミジェットとの暮らしは総じて平和だった。
  そう、平和だった。
  「平和だね……」と甲高い声でつぶやくのは立松和平だった。
  年のはじめに車検整備とリア足回りのリフレッシュをおこなって以来、ぼくとミジェットとの間には、なにも起きていなかった。なにも起きてない、というのはアレだね、つまり“故障してない”ってことだ。
  前年の夏、ぼくのもとに嫁いできてからしばらくの間、ミジェットはある意味“絶好調”だった。飛ばしまくりだった。テンション高かった。にわかエンスーのオーナー相手に「これでもか、ホレこれでもか」と矢継ぎ早にトラブルの洗礼を浴びせかけてきたのである。
  そのたびにぼくは「あうっ」「ぐむう」「はうあっ」「とほほ」とさまざまなリアクションをとりつつオロオロしてきたものだ。
  しかしそんな出来事も、いまとなってはすべて過去。
  過ぎ去った日々の思い出話である。
「そんなこともあったな」
  などと夕暮れの空に微笑みを投げかける余裕さえあったりするのである。
  乗りたいときにエンジンがかかり、走りたいだけ走り、止まりたいときに止まる。
  当たり前と言えばそれまでだけど、その当たり前が思うままに叶わなかった時期もあったものだ。しかしそんなことなど何もなかったかのようにミジェットは快調そのもので、トラブルと縁のない暮らしがもう半年も続いていた。

  トラブルが起きないと、精神的に余裕が生まれる。そうなるとミジェットとの暮らしが、それまで以上に楽しくなるものだ。
  壊れない、あるいは壊れる気配がない、という事実は、ミジェットに対する安心感を徐々に高めていった。
「止まるかもしれない」
「動かないかもしれない」
「無事に帰ることができるだろうかワシ……」
  などと運転しながらビクビクすることがなくなってきたのである。
  不安がなくなると、あとには楽しみだけが残る。
  ぼくはミジェットとの暮らしを、ここぞとばかりに満喫した。
  週末ごとにドライブに出かけた。もちろんミジェットで出かけるときもあったし、彼女のロードスターに乗り込むときもあった。長距離のドライブにはさすがにまだ不安が残っていたので、ちょっと気合いを入れて遠出するときはロードスターの出番が多くなったが、まだまだ蜜月まっただなかのぼくがミジェットを放っておくはずもない。スキあらばMGのオクタゴンマークがついたキーホルダーを握りしめて部屋を飛び出しては、いそいそとミジェットの幌を開けて走り出したものだった。
  
  冬は凍てつく風を突きながら春を想い、春になれば桜並木の通りを駆け抜け、風のあたたかさを感じればシャツの袖をまくり上げて初夏を感じた。
  海を横目に国道を走った。
  木漏れ陽のワインディングを走った。
  夕暮れの街でビルのシルエットを見上げて走った。
  鳥の声を聞き、風にふれ、大きな空の存在を感じながら、ぼくはいつも走っていた。

  それはまさに“オープンカーの日々”。
  1994年、初夏。
  ミジェットはすんばらしく絶好調だった。


「最近ミジェット、ごきげんいいね」
  と彼女が笑う。
「ミジェット調子いいッスか。それはなによりッス」
  とショップの社長がうなずく。
「おっ、あのボロ車、まだ壊れんのか?」
  と会社の先輩がからかう。

  フッ……。

  いまのミジェットは、あの頃のミジェットとはわけがちがうんだぜ。
  「とりあえず壊れてばっかりの車」などという不名誉なレッテルは返上さ。ミジェットだってその気になれば、ちゃんと普通に走れるんだぜ。ちゃん、りん、しゃん。フッ、いまのは意味がないセリフだぜ。

  それにしても──。
「やればできるじゃんミジェット!」
  なんの不平ももらさず、ぼくの思いにありったけのパフォーマンスで応えてくれるミジェットを、ぼくはあらためて見直してしまった。ホレ直したのである。
「これならイケる!」
  と手応えを感じた。
  古い車でも大丈夫じゃん。ちょっと直したらもう壊れないじゃん。メンテしとけば普通に乗れるじゃん!  けっこう楽勝じゃん!
  旧車なにするものぞ!
  ワーハッハッハッハ!

  そんな高笑いを一瞬にして吹き飛ばすような事件が起きた。



  1994年、6月。
  その夜、ぼくは街はずれの県道を走っていた。
  もちろん健康的にジョギングで汗していたわけではなく、排ガスを撒き散らしつつミジェットで徘徊していたのだ。
  街はずれといっても片側2車線ある「幹線道路のはしくれ」といった道だ。夜の9時を少しまわっていた。信号が赤になれば5〜6台は停車するほどの交通量がある。
  梅雨が重くのしかかっていた。
  風のない、蒸し暑い夜だった。
  昼のうちに雨雲が運んできた湿気を、大気がそのまま抱え込んでしまっているようで、不快指数85%的けだるさが街をじっとりと包んでいた。
  重くよどんだ空気を、ミジェットの低く小さなウィンドスクリーンがねっとりと切り込んでいく。
  三角窓から飛び込んでくる風が、湿り気のある大気の匂いをコクピットに束の間残したのち、するりと夜空へ飛び去っていった。
  冷たい缶コーヒーを硬い喉に押し込む。
  目的地などない。
  ただ心のままにステアリングを切り込み、ガスペダルを踏みつけ、息苦しい熱帯夜のどこかにあるはずのオアシスで心の渇きを癒したいだけさ。
  とまあ、北方謙三ばりのストイシズムを片頬のあたりに漂わせつつ、しかし現実は「なんだかきょーはむじあづいやーねー」などと東海林さだお風にトロケながら走っていると、目の前に踏切が現れた。高松市民にはおなじみの、建物の影からいきなり現れては幹線道路を堂々と横切っていくコトデン(琴平電鉄)の踏切だ。
  一旦停止。
  踏切をガタゴトと越える。
  その直後──

  くさい……。

  なにかのにおいが鼻孔の奥深くへ侵入してきた。

  そう。
  踏切を越えるときの振動で、ついオナラをしてしまったのである。


  というのはウソだ。
  オナラではないが、しかし明らかにくさい。
  鼻孔の奥をツンツンと刺激する、いわゆる“異臭”が、ぼくの嗅覚に激しくアッピールしてきたのである。
「またか!」
  脳裏にあの忌わしげなネコのオシッコ事件がよぎる。
  しかし今回のにおいは、あのときのにおいとはわけがちがう。
  異臭であることにちがいはないが、オシッコのようなアンモニア臭でもなく、ましてやなにかが腐ったような悪臭でもない。
  なおかつこのにおいは、幌を開け、風を受けて走りながらもなお、我が鼻孔を激しく攻撃してくるのである。それだけのパワーを秘めた異臭だという事実に、ぼくは戦慄をおぼえた。
「いったいなんのにおいだろう……?」
  ミジェットを走らせながら、においの正体を突き止めようと鼻をクンクンと鳴らす。
  1秒後、においの正体は判明した。
  なぜそんなに早くわかったのか?
  理由は簡単。
  ダッシュボードから煙が噴き出てきたからだ。


  うわわー!!


「うわ、うわわ煙がうわ、うわわ……!?」
  突然の出来事にアタフタとおののくぼくを横目に、煙はどんどん勢いを増していった。センターコンソールあたりから黒い煙がもくもくと噴き出してくる。たちまち視界が奪われ、ただでさえ頼りないメーターの灯火が、あっというまに見えなくなった。

  こ、このままじゃ……。

  燃える!

  そ、そして……。

  四国新聞に載ってしまう!

  直後、電気系がブラックアウト。
  そしてエンジンが──止まった。

  
  煙のむこうに車のヘッドライトが流れていく。
  ふうっ、と煙を吹き流して、ぼくは煙草をアスファルトに押しつけた。
  肩で大きく息をつき、額の汗をぬぐって、2本目の煙草に火を点ける。

  路肩に不時着したミジェットを眺めて、ぼくはまた肩で息をついた。
  ダッシュボードからの煙はひとまずおさまったようで、そこにあるのはごく穏やかな、いつものミジェットの姿だ。しかし穏やかなのは外見だけであり、実際のところ目の前のミジェットは「ワシもうだめ……」なのであって、早い話がエンジンかからないのである。電気系は完全に死んでいた。ルームランプすら点灯しない。穏やかではない話だ。
  路肩のスペースがほとんどないため、ミジェットは片側2車線のうち1車線をほぼ完全に塞いでいた。ハザードランプもつけずに停車している古ぼけたオープンカーを、後続の車がいぶかしげに避けていく。
「おっ、変わった車」
「なにやってんだ?」
「こんなとこに止まって邪魔くせーな」
  ドライバーや同乗者の表情はさまざまだが、いずれにしてもミジェットは注目の的だった。道行く人々の熱い視線を一身に受けている。その視線から逃れるように、ぼくはミジェットから数m離れた歩道の縁に腰を下ろしていた。

  ふう……。

  やけに蒸し暑い。なんだかぐったりとした気分のまま、ぼくはしばらくその場に座り込んでいた。
  原因を調べようとか、応急処置をしようとか、そういう気にはならなかった。
  なんつったって怖い。
  走ってる最中になんか燃えて煙が噴き出したのである。テレビのコンセントを抜いたみたいに、エンジンも電気系もブチッと死んでしまったのである。
  もうダメだ、と思った。
  さよならミジェット、とも思った。
  しかし煙は唐突に止まった。
  エンジン停止とほぼ同時に、ダッシュボードからもくもくと噴き出していた煙がピタリとおさまったのである。惰性で路肩に寄せたあとしばらく様子をうかがったが、また煙が噴き出てくる気配はなかった。

  ふう……。

  煙がおさまったからなんとか気持ちは落ち着いてきたものの、それでもまだ心拍数はちょい高めである。「ねえほら、あたしまだこんなにドキドキしてるわ……」なのである。
  しかしいつまでもドキドキ少女やってる場合ではないので、もっそりと立ち上がり、あたりを見渡す。50mほど離れたところに電話ボックスの明かりが見えた。
  のそのそと歩きはじめたぼくは、ここで初めて「これからどうしよう……」という不安に襲われた。
  ミジェットは動けない。自分じゃどうしようもない。
  いまは……午後9時半。ショップはもうとっくに閉まってる。
  JAF呼ぶか……。しかしそういや俺ってJAF入ってないよなあ。徳島でトラブッたときは彼女のJAFカード使ったんだっけ。
  とりとめのない思いのまま電話ボックスにたどり着き、受話器を上げる。しばらく考えてから、ダメもとでショップの番号を押した。
  誰も出ないと思っていた電話が、3コールで唐突につながった。
「もしもし社長!?」
  毎度ども、といつものように早口の社長は、残業をしていてこんな時間までいるんです、と言ってから「なんか起きましたか」とふいに神妙な口調になった。時間が時間だけに事態を察したようだ。事のあらましをかいつまんで説明するや、「いまから行きますから待っててください」と言って社長は電話を切った。

  よかった……。
  残業してくれてて、ほんとよかったよ……。

  ひとまず救援のメドが立ったことで、ぐったりしていた気分に光明がさしてきた。
  さっきより15%ほど軽くなった足取りでミジェットのもとへ戻る。その道すがら、「はてしかし……」と素朴な疑問がわいてきた。

  いったいなんだったのだ。
  煙……。
  煙ってことはなんかが燃えたわけだが、しかしなにが燃えたんだ?
  そういや煙はダッシュボードの裏から噴き出してたっけ。
  ……配線?  配線が燃えたのか?
  煙が出る前、なんかにおってたよなあ……。
  あれって、つまり配線のビニール部分が燃えてたにおいだったんだな。ビニール燃えたらくさいしなあ。

  もといた場所に再び腰をおろし、煙草をふかしながら、ぼくはとりとめのない思いをめぐらした。
「古い車でも大丈夫じゃん!」
「普通に乗れるじゃん!」
「楽勝じゃん!」
  なーんて考えたのが甘かったのかな。ポリポリと頭を掻いてみる。
  やってくれるぜミジェットよ。
  まさか燃えるとはね……。
  路肩にたたずむミジェットを、ぼくはあらためて眺めた。
  なーんにも考えてなさそうな「のぼーっ」とした表情で、やつは路肩に座礁していた。
  その姿を見ていたら、なんだかふいに笑いがこみあげてきた。

  立て続けに煙草を4本ほど吸ったころ、社長がやってきた。ユニックキャリアでのお出ましである。
  交通の邪魔にならない場所へキャリアを止め(まあそれまでに十分邪魔になってたわけだが)、ぼくと社長でミジェットをワッセワッセと押していく。
  夜更けの午後10時すぎ、街はずれの4車線道路で繰り広げられるそれはあまりに怪しすぎる光景だったが、このときぼくはすでに羞恥心というものを忘れていた。むしろミジェットを懸命に押す自分の姿を想像して「これってけっこうエンスー度高いよなあ」なんてひとりほくそ笑んだりしてしまった。
「えらいことですなあ!」
  エイサホイサとミジェットを押しながら社長が他人事のように叫び、ぼくにニヤリと笑いかけてきた。
「えらいことですわ、ほんまに」
  社長はもう一度言った。
  ぼくもつられてニヤリと笑い返し、
「えらいことですわあ!」
  と叫んだ。
  やがてミジェットはキャリアに積載された。その姿を、ぼくは腕を組んで見上げた。
「うーむ、これからサーキットへ行くみたいでかっこいいぞ」
  ミジェット、5度目の入院だった。

  やばいなあ。



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