vol.02 その名はミジェット


  1992年初夏。
  ユーノス・ロードスターは彼女のもとに納車された。
  その週末、パリッパリの新車ロードスターで、ぼくは彼女とドライブに出かけた。
  傷ひとつないシルバーのボディに陽光をひらめかせ、ロードスターは郊外へと国道をひた走る。
  もちろん幌は全開だ。
  爽やかな風と穏やかな陽のぬくもりを肩のあたりに感じながら、しかし、ぼくは複雑な面持ちだった。

  ほんの数カ月前、ぼくはレンタカーのロードスターをこの手で操り、生まれて初めて体験するオープンカーにノックアウトされた。しかしノックアウトされたのはぼくだけではなく、後日同乗した彼女もまたオープンカーという乗り物にヤラれてしまっていたのだ。
  彼女もまた、ぼくと同じように「オープンカーがほしい!」と熱望するようになった。
  ぼくよりひと足早く社会人となった彼女が、自分で稼いだ給料でロードスターを購入したのは、だからごく自然ななりゆきだったのである。

  彼女がロードスターを手に入れたことで、ぼくとオープンカーの関係はグッと密接なものになった。
  なにせ自分にとって縁遠い存在だったものが、その気になれば週末ごとに……いや平日であっても乗ることができるようになったからだ。
  オープンカーに乗りたくなれば、彼女に電話して「ドライブにいこう」と言えばいい。それだけでオープンカーのシートに収まることができる状態になったのである。

  ンが、しかし……。

  いまこうしてオープンカーに乗り、少女漫画なら正体不明のキラキラする粒が混入しそうな清々しい風を感じつつも、ぼくの心はいまひとつ晴れなかった。
「このオープンカーは自分のものではない」
  いくら身近な存在になったとはいえ、そのロードスターは彼女の所有物である。「その気になればいつでも……」とはいいつつ、では夜中の3時27分にいきなり乗りたくなったらどうするのか、という問いに対しては「ガマンするしかない」と答えざるをえない。
  そんなことをモヤモヤと考えていると、つい「愛しても愛しても嗚呼ひとの妻……」などとつぶやきながら、背中を丸めて北の酒場に足を向けてしまいそうである。
  ひとの妻を午前3時27分に呼び出すわけにはいかないのだ(いや、彼女のことではなくロードスターのことである、念のため)。
  彼女がロードスターに乗りはじめたことで、ぼくとオープンカーとの距離はたしかに縮まった。幌を開けて走るチャンスはたちまち増え、ぼくはますますオープンカーが好きになり、そしてますますほしくなっていった。
  たとえばプレステ2がほしくてたまらない子供がいたとして、その子の友だちがある日プレステ2をゲットしてしまったらどうだろう。その子はスキあらば友だちの家に押しかけてプレステ2に熱中するだろうが、しかし時間がくれば後ろ髪をひかれる思いで自分の家に帰る。そこにプレステ2はなく、しかたないのでスーパーファミコンでお茶を濁しながらも、その手にはついさっきまでたしかに握りしめていたコントローラーの感触が残り、目を閉じれば画面いっぱいに繰り広げられていためくるめく映像世界が鮮明に蘇ってくるはずだ。そしてますますプレステ2がほしくなってしまうのである。
  自分がほしくてたまらないものが身近な場所にあるというのは罪なことだ。
  ひと足先にオープンカーをゲットした彼女に、ぼくは少なからずジェラシーのような感情を覚えた。そしていまのぼくには逆立ちしたって買えるはずもないロードスターの優美な姿を羨望のまなざしで見つめていたのである。
「よおし……。おれも買うぞ。絶対買うのだオープンカー……!」
  オープンカーを手に入れたいという思いは衰えるどころか日増しに膨らんでいった。その思いを癒すべく、オープンカーが載ってる雑誌を片っ端から眺めた。そして「いつかおまえをハアハア……」などと息を乱す夜を過ごしていったのである。


ロードスター


  それから1年が過ぎた──。

  1993年、春。
  とある小さな新聞社にぼくは入社した。晴れて社会人の仲間入りを果たしたのである。
  毎月の生活費捻出に頭を抱えるプータロー時代は過ぎ去った。
  毎日コツコツ働いていれば、それまでとは比べものにならない金額が月末に振り込まれるようになったのである。
  …………フッフッフッ。
  機は熟した。
  次の日に着るワイシャツにアイロンをかけながら、ぼくはおもむろにニヤリとほくそ笑んだ。
  一年半という長き沈黙を経て、プロジェクトはついにXデイを迎えたのである。
  いまこそ買うのだオープンカァァァッッ!!!!
  本棚から車の雑誌を大量にひっぱりだし、「バババッ!」などと口で効果音をつけつつ、ぼくはそれらを読みあさった。
「どどどどどどのオープンカーにしようかななななな!?」
  あらためて見渡せば、オープンカーという車はけっこうな種類があるものである。
  スーパーセブン、MG-B、アルファロメオ・スパイダー、トライアンフ・スピットファイア、モーガン、コブラ……あハァん(うっとり)。
  とはいいつつ、よりどりみどりというわけではない。
  いくらまとまった額の給料をもらうようになったとはいっても、しょせんは社会人一年生。自由に使える額にも限度はあるというもんだし、貯金らしい貯金もあまりない(結局アルバイト生活でお金はほとんど貯まらなかった)。
  果たして予算はいくらぐらいを考えておけばいいのか。
  それまで具体的に検討したこともない事実に気づき、ぼくはハタと立ち止まった。
  16秒ほど真剣に考え、「とりあえず200万」と決めた。
  なぜ200万円なのか。
  自分の収入と支出のバランスをマルクス経済学理論に基づきウェーバーの原則を鑑みつつ後入れ先出しの貸借対象表を検証したうえで東証株価指数と照らし合わせた結果の算出である、などとほざいてみるがそれはもちろん大ウソであり、その額にさしたる意味はなかった。とりあえずそのくらいではないか、となんとなく思っただけである。
  あいまいではあるが、しかしひとまずの基準というものが設定されると、購入対象となる車種も自ずと絞られてくる。
  さて、どのオープンカーにするか……。
  通勤電車で揺られながら、取材に向かう車を運転しながら、本屋で立ち読みしながら、そして部屋で煙草をくゆらせながら、ぼくはそのことをぼんやりと考えてみた。
  この一年半、ただひたすら「オープンカーがほしい」と願い続けてはいたが、では具体的にどのオープンカーがほしいのか、じつのところあまり深く考えたことはなかった。

  ユーノス・ロードスターでオープンカーに取り憑かれた以上、ロードスターを買うのがごく自然ななりゆきかと思われたが、しかしそのロードスターはいまや彼女の相棒である。ペアルックじゃあるまいし、まさか同じ車を買うわけにはいかなかった(ふたりともオープンカーというのもどうかと思うが……)。
  とりあえずロードスターはナシだな……、などと思いをめぐらせつつ旧車雑誌のカーマガジンをめくれば、そこにはけっこうな数のオープンカーが中古車として掲載されている。そのほとんどは外国の車だった。
「ふーむ……」
  かっこいいとは思うが、いざ購入の対象として検討すると、外車というのはどうも及び腰になってしまうものである。オープンカーというと、ただでさえ非日常的な性格が強い車だし、それが旧車となれば「壊れる」「メンテナンスが大変」というネガティブな印象がプラスされる。ましてや外車となると「こりゃ大変なことになるぞ……」という予測がなんとなくついてしまうのである。
  事実、10年落ちのアウディに乗っていたぼくの姉、という例が身近にある。少なからずの額を払って購入したアウディだったが、姉は小さなトラブルにいつも悩まされていた。そのうえ、ある日路上で突然「ドカン!」という激しい音とともにトランスミッションが壊滅してジ・エンド、という結末を迎えている。
  とりあえず外車はナシだな……。
  それに旧車もやめとこう。
  外国の車も古い車も、ぼくにとってはまだまだ身分不相応な気がした。
  オープンカーなんていう非日常的な車を買うのだから、せめて国産の新しめのヤツにして「日常」な部分をキープしておこう。そう考えたのである。
  と、なると……。
  車種はますます絞られてくる。ロードスターの登場でやっと日本車にも「オープンカー」というジャンルが定着しつつはあったが、市販されているものとなると数はまだ少ない。ロードスターが候補から外れたいま、土俵に上がってくるのはホンダのビートかスズキのカプチーノぐらいである。
  ここで事態は急速に展開する。ビートかカプチーノか。そのどちらかを選ぶとなれば、答えは1.4秒で出たのである。
「うん、ビートだな!」
  理由は至極簡単。ビートのほうがかっこいいからである。カプチーノオーナーには失礼だが、ビートとカプチーノを比べたら明らかにビートのほうがかっちょいい。スタイリッシュである。ビューチフルである。スッキリ爽快なデザインである。かのピニンファリーナが一枚噛んでいると噂されるシャープなスタイリングは、軽自動車とはいえかなりイカした仕上がりだ。まずは見た目で判断してしまう傾向のあるぼくとしては、ビートを選んだのはごくごく自然な流れであった。

  初夏のある週末、ぼくはさっそくホンダクリオ店におもむいた。
  すかさずスリ寄ってきた営業マンにひと通りの説明を受け、カタログをもらい、ついでに試乗させてもらう。
  ビートはとてもいい車だった。実際に間近で見ても、その均整のとれたスタイリングには破綻がなかったし、適度な閉塞感のある(じつはかなり狭いが)コクピットもぼくの好みにマッチしていた。この好印象は試乗をしても変わらず、少し喘ぎつつも高回転まで元気に伸びていくエンジンがビートにさらなる好ポイントを追加したのだった。クイックで正直なハンドリングも言うことなしである。
  そしてなにより、このビートも正真正銘のオープンカーだった。フロントウィンドウの傾斜がいくぶんキツいけど、幌を開け放つ爽快感は他の車では味わえない、オープンカーならではの突き抜け度100%!
  ぼくはビートが気に入ってしまった。
  試乗を終えてグルグルとビートの周りを歩きながら、小さくて赤い、そのキッチュなオープンカーと暮らす日々をぼくは想像した。
「うん、やっぱりビートだな」
  ぼくはある種の満足感を覚えた。
  そこから話はトントンと進んでいった。見積もりを出してもらい、値引きはどのぐらいか、納車されるとすればいつ頃か、この装備はどんなもんか、などと具体的な話を織りまぜつつ、営業マンに「これは決まったな」と思わせる段階まで進展していったのだ。
  もちろん予算200万円内で十分に収まる買い物である。
  あとは契約書にハンコを押すだけ。結婚でいえば両家の顔合わせぐらいまでは進んだような状態だった。
  なにも起こらなければ、次の週末ぐらいには印鑑持ってホンダクリオに出向いていたかもしれない。そうしてビートとの新しい生活がはじまっていたかもしれない。
  なにも起こらなければ、ぼくはこのままビートを買っていたのだ。
  なにも起こらなければ……。


ビート


  次の週末。
  その日は朝から雨が降っていた。シトシトと尾を引いて降り続く、梅雨のはしりのような雨だった。
  ぼくはひとり、部屋で退屈をもてあましていた。何かをする気にもなれず、とくに用があるでもなかった。しばらくは雑誌やテレビを横目で眺めながら床をゴロゴロ転がっていたが、そのうち重い腰を上げて部屋を出た。なにか目的があったわけではない。ただなんとなく外に出たくなり、雨のなかドライブでもしてみようか、ぐらいの気分だったのである。
  当時ぼくは中古の軽自動車に乗っていた。学生時代に18万で買ったものだ。彼女がロードスターを買って以来、休日の出番はほとんどなくなっていたので、まあ久しぶりに乗ってみるか、てなところである。

  雨が降りしきるなか、ゆくあてもなく車を流しながら、ぼくはビートのことを考えてみた。  

  ビートかあ。ビート……。ビートねえ……。
  いい車だよなあ。あれをもうすぐ買うのかなあ、おれは……。
  新車だよ新車。新車かあ……。新車シンシャしんしゃ……。
  新車ってのは、しかしどうなんだ?
  べつに中古でもいいんだけどな、いいのがあれば。中古なら安いし。そうだよな、中古でもいいんだよな。
  中古かあ。中古ねえ……。

  少しだけ開けたサイドウィンドウの隙間めがけて煙草の煙を吹き、ぼくはぼんやりと考えをめぐらせていった。
「ちょっと探してみるか」
  どうせ退屈をもてあましていたところだ。ドライブがてら中古車屋を回ってみるというのも悪くはない。ぼくは車の鼻先を郊外に向け、街道に面した中古車屋を気の向くままに訪れてみることにした。

  ビートの中古車は意外というか、ほとんど出物がなかった。たまに店頭で出会うものはボディがイエローだったり(赤がほしかった)、ヘンなスポイラーがついていたり(スポイラーは嫌いだ)と、なかなか自分の好みに合致しない。
  まあ中古なんてそんなもんだろうな……。
  数軒めの中古車屋をあとにしながら、ぼくはフゥと小さく息をついた。
  雨はやむ気配がなかった。朝から同じ調子でシトシトと降り続いている。エアコンのない車内が、ジットリと湿気を含んでいた。
  
  そういえば……。

  眠くなるようなワイパーの動きを目で追いながら、ふと思い出した。

「そういえばどこかに、ミニをいっぱい置いてる店があったな……」
  展示スペースにズラリと並ぶミニの姿がやけに印象に残る店だった。ずいぶん前に、たまたま通りかかったことがある。
「ちょっとミニでも見てみようかな」
  退屈まぎれの好奇心による、ちょっとした思いつきだった。
  おぼろげな記憶を頼りに、やがてその店にたどりついた。
  展示スペースには、以前見かけたときとまったく同じようにミニがズラリと並んでいる。そぼ降る雨をうけ、どのミニもどんよりと冴えない表情のように感じられた。定休日なのか人影は見当たらない。客もいなければ店員がいる気配もない。整備工場だと思われるガレージのシャッターは、かたく降ろされている。

「あ……」

  ぼくの視線が、そのガレージの前で止まった。

  オープンカーがある。


ガレージの前のミジェット


  ぼくはフラフラとその車に歩み寄っていった。
  幌はもちろん閉ざされているが、たしかにオープンカーである。小さくて、深い緑色のボディをまとっていた。
  黒いウレタン製のバンパーに、カーマガジンで見慣れた八角形のマークが記されている。その車がMGであることを示す、特徴的なオクタゴンマークである。
「MG、か……」
  MGの現車をまのあたりにするのは、これが初めてではなかった。ずいぶん前に中古車屋でMG-Bを偶然見かけたのが最初である。そのBはとてもくたびれた車だった。1980年製だということだからすでに10年以上前の車になるが、ボディはすっかり色あせ、内装がほつれ、いかにも旧車然としているというべきなのか、とにかくオンボロだったのである。
  しかし、いま目の前にあるMGは、とりあえず綺麗な状態を保っているようだった。ボディには艶があり、降りかかる雨が水玉となって時おりツルリと滑り落ちていく。ビニール製のリアウィンドウは多少ススけてはいるが、幌自体はまだしなやかさを失っていないように見えた。
  カーマガジンで仕入れた知識から、それがMGミジェットという名前であることはまもなくわかった。黒いウレタン製のバンパーはたしか5マイルバンパーと呼ばれる代物で、それはつまりミジェットの最終型であることを示している。
  いつしかぼくのまなざしは、品定めをするそれになっていた。
  前から後ろから、横から斜めから、しゃがんだり背伸びしたり、とにかく食い入るようにミジェットを観察した。
  小さいな、と思った。
  軽自動車よりひと回り大きいぐらいだ。
  ふとビートの姿がチラッとよぎる。

  売り物かな……。

  パッと見たところ、どこにも価格ボードがない。車内を覗くと、シートの後ろに価格ボードが裏返しで無造作に置かれていた。
  微妙な角度で「140万円」と読めた。
  140万円。
  ビートとほとんど変わらない値段だ。
  このテのクルマの相場をよく知らなかったので、高いのか安いのか、それとも妥当なのか、見当もつかない。
  覗きついでに、コクピットをあらためて眺める。
  幌を閉めてあるせいか、暗くて狭苦しい感じだ。
  ウレタンとプラスチックで覆われた黒一色の世界。
  大径で握りの細いステアリングの中央に、バンパーにあるものと同じMGのオクタゴンマークが入っている。その奥には丸いメーターが大小入り乱れて4つ並び、それぞれを縁取るメッキリングが薄暗いコクピットの中でギラリと光っていた。

  ふと──

  目の前にあるこのMGミジェットが、自分のために用意されているような気がした。
  もしここでぼくが立ち去ったら、ミジェットはだれの目にも止まることなく永遠にここに放置されてしまうような、そんな気がしたのだ。
  ぼくは不安になってきた。
  胸の奥がザワザワと波立ち、ツーンとした痛みを感じて、その場から立ち去ることができなくなった。
  この場をだれかに目撃されたらまずいような、うしろめたい気分だった。
  その気まずさになんとなく突き動かされ、ぼくはぎこちなく煙草に火を点けた。

  ひっそりとした展示スペースに、雨の音が静かにたちこめている。

  街道をゆく車が水しぶきを上げ、そのザワッとした音がするたびに一瞬現実に返るものの、すぐにまたぼくの目はミジェットに焦点を結んでいた。
  ガレージの軒先で雨にうたれながら、じっとうずくまっている、小さくて、古びた……オープンカー。
  天使だか悪魔だかが、耳元でそっとささやいた。

「買っとけよ、これ」


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